Mの記憶

付添というのも疲れますね。大変なのは他人なのに、自分の都合でない用事ということに疲れるような気がします。我儘のつけが回ってきているのかも。

カメラはオリンパス・ミュー。父の持ち物でした。

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olympus e-m5mk2 17mm

ミューへの敬愛をこめてもう一枚。
化石は子供の夏休みの宿題の残骸(?)。

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olympus e-m5mk2 25mm

ミューにちなんで、μの大文字Mの歌を、
 蒼き貝殻轢きつぶしゆく乳母車・many have perished, more will(あまたほろびたり、さらにほろびむ)   (塚本邦雄:日本人靈歌)


コロナ禍にカミュ「ペスト」への言及があちこちにありますが、これもそのひとつです。メインはカミュではなくジョージ・オーウェルですが。

 疫病大流行のいま、カミュの『ペスト』やデフォーの『ペストの記憶』が新たに読み直されているのは、話題がタイムリーであるからだけでなく、それらの古典としての力にもよるのだろう。(ジョージ・オーウェルの)『一九八四年』も、市民的自由と国家統制の相克、現代の権力のありよう、権力の暴走の怖さ(私たちが彼らを監視していなければ「ビッグ・ブラザーがあなたを監視中」となりうる怖さ)を1人ひとりが考えるうえで、思考のヒントとなる古典であると思う。
 当面は新型コロナウイルスがいちばんの脅威で、私たちは政権担当者の愚策・無策に遠慮なく批判の声を挙げつつ、とにかくこれに耐えて生き延びねばならないが、(ナオミ・クラインの用語をもじるなら)「惨事便乗型全体主義」とでも呼ぶべき動きにも注意を払っておいたほうがよさそうだ。「オーウェル」世界をフィクションに留め置くために、いまオーウェルから学びうることは多い。(川端康雄「新型コロナ時代に、ジョージ・オーウェルが再び注目される理由~ディストピアの言語とは何か)

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