除夜の

ことしもブログをご訪問いただいたり拍手をいただくなどしてpithecantroupusの日々の支えでした。
ブログに割ける時間が激減しましたがそれでもぶつぶつ書けることをありがたく思います。
トラは去りウサギが来る。

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 吉事(よごと)申さむ除夜の雷雨のにはたづみそこにてのひらほどの碧空(あをぞら)   (塚本邦雄:風雅黙示錄)

建築家

なら町は朔太郎の猫町のよう。

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テレビはペレばかり言ってますがpithecantroupusにとっては磯崎新のほうが重大ニュースです。
就職してすぐのころ磯崎新解説、篠山紀信写真で建築行脚というシリーズが出たのですが、第1回配本「中世の光と石」だけ買って後が続きませんでした。あのころは欲しいものがいっぱいあってわずかな値の本を買い続けられなかったのです。

 建築家らのたくましき手に成りて模型の兵舎點燈(とも)るやさしさ   (塚本邦雄:装飾樂句)

暮るるやと

ずっとなら町です。むかしです。

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季節外れですが、
 暮るるやと見るほどもなく明くる夜を惜しみて一つ螢飛ぶなり   (塚本邦雄:菊帝悲歌)

せまりし

あれもこれも積み残して年を越すのかなぁ。

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大晦日という単語をさがしそこねて「みそか」のかわりに「みそら」で、
 みそらには冬霞滿ちさ寝ずばとせまりしきみの名はや白梅   (塚本邦雄:如月帖)

さいなみ疲れたるゆびを

年賀状が今朝できました。

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 冬の果實さいなみ疲れたるゆびをきつき革手袋につつめり   (塚本邦雄:装飾樂句)

臘月の

まだ年賀状と悪戦苦闘中。

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 臘月の月光うつそみに零(ふ)れり魂魄のわだかまれるあたり   (塚本邦雄:詩歌變)

ネコですがなにか

とり急ぎなら町のネコ。

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 てのひらに林檎曇れりわが心より人と生(あ)れ來たりしならず   (塚本邦雄:睡唱群島)

イヴ

年賀状もそろそろ時間切れです。どこかでケリをつけなくては。

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これはクリスマスイブではないけれど、
 春天に白き飛機あり。牝鶏のやうに穢れてゐるイヴの末裔(すゑ)   (塚本邦雄:水葬物語)

さむざむと充ち

きのうの奈良のつづきで。といっても何処でもいいような写真。

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以前にブログで「ご飯論法」のことを書きましたが、政治家もマスコミもそれにマヒしているように感じます。
国葬を手続きの問題にして矮小化を図っているような。

ところで国葬というのは香典はないのかなぁ。国葬にしてもらったお礼に、国葬以外も含めて、香典を全て東北復興に寄付してほしかったなぁ。


 葬儀店の見本の寝棺さむざむと安息に充ちわれと等身   (塚本邦雄:日本人靈歌)

いろあせ

近江や美濃に行ったそのむかしの年末に奈良へも行ったと写真が言ってます。
奈良らしく南円堂の屋根とシカと、何かわからん一枚で。

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冬至だそうなので、
 冬麗の晝の殺人事件昨日(きぞ)うたひたることはやいろあせつ   (塚本邦雄:風雅)

寒き日

たぶん美濃のどこかで、もしかしたら近江のどこかだったかも。たった10ウン年前なのに思い出せません。トホホ。
でも、どこで撮っても同じような変り映えしない写真だから、場所はどこでもいいのです。
アッ、これは”とりつくろい”という認知症の性向。

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”とりつくろう”にちなんで”とり”で、
 鳥屋汚れし小鳥つるせり寒き日の鐵路(レール)そこよりするどく彎(ま)がる   (塚本邦雄:装飾樂句)

艱難

思うような写真が・・・。便秘かな。

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文芸誌「群像」2022年4月号に掲載された作家・詩人青野暦のエッセイ「艱難の雲を抜けて」から。

 (ある知人に)わたしは励ます力もないままに、「すこしでもはやく艱難の雲を抜けられますように」と返信の、電子メールの最後に書き送っていた。

 メールを送ってしまったあとで、あるいは声に出してしまったあとで、ほかでもないじぶんが発したはずのことばに、遅れておどろき、つまずいていることがある。いまになって思う。艱難の雲? なんだろう、それは。いったい、どんな雲だろう。いつもひととのあいだに生まれることばに、てのひらに束ねかねる抵抗を感じる。

 だがたしかにそう感じた、そのイメージを受け取り、つたないながらもことばにした。すでにあるものを、どこかから借りてきて、仮に提示してみせたにすぎない。・・・


pithecantroupusも撮ってしまってから自分で訳が分からないことがよくあるけど、これは脳が劣化しているに過ぎません。

 艱難汝を襤褸(らんる)となさむ勿忘草(わすれなぐさ)色のひとみのわすれがたみよ   (塚本邦雄:綠色研究)

息吹き

もう19日というのに年賀状ができません。去年もでした。仕事がはかどらないのも老化現象?

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 百年後のわれはそよかぜ地球儀の南極に風邪の息吹きかけて   (塚本邦雄:黄金律)

きょうは数で行く

年賀状の試行錯誤とむかし近江か美濃の記憶。どうも美濃らしいと気付きました。

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 累卵のやすらけきかなわが上に數千の天才の言靈   (塚本邦雄:魔王)

寄せ鍋

寄せ鍋といってもいいかも。
年賀状の試行錯誤、むかし近江か美濃の記憶、2週間前のひるご飯ついでに写真。

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MODERNTIMESというサイトに小松原織香という研究者が宮崎駿とジェンダーについて書いていました。ナウシカの胸が大きいという話からはじまるので、わくわくして読んだら真面目な宮崎駿論でした。

宮崎にとって映画の創造のプロセスは、監督の頭のなかにある理想像を具現化することではない。そのプロセスを次のように述べている。

『論理で作った部分を、僕は大脳皮質で作った部分というのですが、それに頼ると駄目で、それが役に立たなくなる。無意識の部分が考えてくれないとできあがらない。だから、追い詰められないと駄目ですね。「これは駄目だな」と本当に困ると、意識しない部分で考えてくれて、何か答えが出てくる。そういう形で答えが出てくると、自分で映画を作っているような気がしてくるんですね。納得する答えが出てくる。』(宮崎駿「出発点」徳間書店、1996年)

要するに、自分のアイデアは、いつのまにか違うものになってしまっているが、それこそが創りたかったものだと納得いく境地までたどりつくことを、宮崎は肯定的に語っている。


難しい事は分からないけどpithecantroupusはナウシカのファン。作家が違うけどナディアもいいなぁ。

季節がちがいますが、
 處女の鼻歌同じところをゆきもどり裸麥まだ半裸の四月   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

名づけて

むかし滋賀県のどこかで撮った写真と試行錯誤の記録と。

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三田評論onlineというサイトに載っている今年の6月号の記事「【三人閑談】歴史のなかの猫たち」で、慶應卒の大学教授、美術館学芸員、評論『熊楠と猫』著者三人が対談をしていました。面白いけどまとまりのない雑談から引用します。

教授 昔は割と複数の名前を持った猫がいましたね。家の外を出入りするのが普通なので、あちこちで餌をもらって、それぞれの家で違う名前が付けられる。今はもう室内飼いが中心になったから、そういうことはなかなかないですけど。

熊楠著者 うちの猫の1匹も3カ月ぐらいいなくなったことがあって、ある日、母が近所を歩いていたら、ある家に「あれっ、うちの猫がいる」って。向こうも「あっ」って感じでちょっと気まずそうに寄ってきて。でもうちにいた時より太ってた(笑)。

美術館学芸員 栄養がよかった(笑)。ちゃっかりしていますよね。


 飼猫をユダと名づけてその昧(くら)き平和の性(さが)をすこし愛すも   (塚本邦雄:装飾樂句)

無理数

年賀状向きではないかも。
むかし愛用した小穴式引き伸ばしルーペを、少し前プリントした写真に載せて。

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 今朝もサッカー少年が誦(ず)すヒトミゴロ見殺しにして明日も捷ち抜け   (塚本邦雄:獻身)

しびるるばかり

せっせと年賀状試行錯誤です。ついでに庭のツバキも。

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古本夜話というサイトは「パピルス」という出版社を運営する小田光雄という方が書かれているようですが、その1338夜、「我観」という三宅雪嶺が大正のおわりごろ創刊した雑誌の話から。

 「『我観』発行宣言」は「本年九月初め、我が首都付近に大震災あり、続いて大火災あり、幾年かの東洋の誇りが一空に帰し、政教社及び東方時論社亦た災を免れず、曩に他を憐みし者が他に憐まるゝとは、抑ゝ何を暗示するか」と発し、続けている。

欧州の神話に、鳳凰(フェニックス)は自らの身を祭壇に焼き、灰燼中より若かき姿を以て出現するとあり。幾多の言論機関が帝都の焦土とかすると共に、我らの思想発表機関は新基礎の上に出現するの適当なるを認む。新たなる雑誌は『我観』と称し、新たなる社は『我観社』と称し、日本国に生存する固有の日本人はもちろん、太陽の下に生存する全世界人類の協同し、造化の功を補ふを望む。
十人十色といひ、各雑誌に特色あり、多く売りて称すべきあるも、我等の従事する所は、自ら商品とせず、主張し報道するが為めに発行し、出入相ひ償ふを得ば素なり。発売するを以て商品とするは、芸術品を商品とすると同様にして、芸術品に商品なるありとし、真の芸術家は決して之を商品とせず、日本人の立場に於て全人類は貢献すること、『我観社』より発行する雑誌『我観』を以て為し得ずと限るべからず。我等は二十世紀の文明文化が言論文芸に欺かる力を与へたるを思ひ、新雑誌『我観』発刊の主旨を述ぶ。

 少しばかり長く引用したのはここに関東大震災が雑誌にとってもターニングポイントで、雑誌も貌の見える読者に向けてのリトルマガジン的「芸術品」から、限りなく大量生産大量消費の「商品」へと向かっていく出版状況を暗示しているように思えてならないからだ。


リトルマガジン的「芸術品」から、限りなく大量生産大量消費の「商品」へと向かっていくというのが戦後の写真の歴史と重なるように思いました。

 支那料理鳳凰文の鉢割つてこの世しびるるばかりうるはし   (塚本邦雄:詩歌變)

頌歌

道徳観念が低下するのは老化現象。タバコを喫して何がわるい。

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紫煙の代わりにシェーン。
 シェーンベルク祭<ナポレオンへの頌歌>もて畢り紅椅子の屍(し)は充つ    (塚本邦雄:綠色研究)

水路

”ついで写真”在庫も払拭したのでまた”むかし写真”へ戻って。

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 水路を逆に逢ひにきたれりくろがねの腕にオールに滴る夕燒(ゆやけ)   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

甘し

つづきです。

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きのう、引用が長くなるからと割愛した蓮實重彥「些事にこだわり」ですが、やっぱり面白いので珈琲のくだりを引用します。

 芥川賞作家の磯﨑憲一郎さんが、拙著『ジョン・フォード論』について『文學界』(九月号)にこう書いておられる。
「ご自宅に奥様は不在で、蓮實さんが自らコーヒーを淹れて下さった、先に私が砂糖とミルクを入れ、シュガーポットを手渡すと、蓮實さんはスプーン山盛りの砂糖を五杯も、六杯も、冗談ではなくカップの中の液体を全て吸い上げるのではないかと思われるほどの、大量の砂糖をコーヒーに投入した、私は何かの間違いでも目撃しているような恐ろしい気分になった」。
 磯﨑氏はそう書いておられたのだが、確かにこれは「何かの間違い」ではなかろうかと思う。わたくしは、自宅で珈琲に入れる砂糖は、かなり大きめのカップにスプーン二杯と決めているからである。ただ、老齢故の健忘症から入れたことを即刻忘れてしまい、さらに二杯分を追加したことなら大いにありうるかもしれぬ。あるいは、読者へのサーヴィスを目論まれ、磯﨑さんが砂糖の量を誇張して書いておられたのかもしれぬ・・・

 ところが、この磯﨑氏の文章をたまたま読んでおられた元編集者で、かつて大江健三郎を担当する機会もあったという某氏は、「磯﨑さんは、まだまだ甘い!」と即座にいってのけた。蓮實に較べれば、大江さんの砂糖の入れかたの方が遥かに徹底したもので、小さなカップの中の褐色の液体がどろどろになるほどの多量の砂糖を入れた珈琲を、何の衒いもなく愛飲しておられたというのである。
蓮實重彥「些事にこだわり」第10回

 冬の石榴甘し見るともなく見しは醫師が醫師刺すイタリア映畫   (塚本邦雄:天變の書)

不可思議な

きのうのついで写真のつづきを。
ついでですから質は二の次で。

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WEBちくまの蓮實重彥「些事にこだわり」第10回『この世には、どうやら珈琲にたっぷりと砂糖を入れねば気のすまぬ世代というものが存在しているようだ』から引用します。
文中の磯﨑憲一郎は蓮實の近著について『文學界』(九月号)に評論を書いた作家だそうです。

 しかし、と進駐軍時代をご存じない世代の磯﨑憲一郎さんに申し上げたい。進駐軍体験を持つ世代の者たちは、それ以降の世代には不可思議と映る行動を涼しい顔で演じてみたりするものなのだ、と。だが、わたくしの何かが不可思議な振る舞いと映ろうと、それはいっさいわたくしの責任ではない。それは、当時は昭和と呼ばれていた日本の歴史と深くかかわっている事態なのだ、と。

珈琲に砂糖を入れる話が面白いのですが、引用すると長くなるので割愛しました。でも、この文中で蓮實が『ママトモなどという猥褻な語彙』と書いたことは大いな同意をもって記憶に残しておきます。

 詩よりむなしく熱(あつ)し心はアラビアを驅けて珈琲色(コーヒーいろ)のその唇(くち)   (塚本邦雄:水銀傳説)

妖精が通る

本日のお昼ご飯ついでに写真を。

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lensbaby 5.8mm 3.5

寄り道の道で、季節外れですが、
 良夜の道うちつけに汗ふきいでつうらわかき妖精が通るか   (塚本邦雄:詩歌變)

師走八日

きのうの繰り返しで。

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うさぎは京都宇治神社のみかえり兎おみくじ。カメラはキヤノンポピュレール。
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きのうが大雪だったと今ごろ気づいて、
 雪の上にあるいはこれは恐龍の齒型か師走八日あかつき   (塚本邦雄:風雅黙示錄)

喜劇

10ウン年前の写真と年賀状への試行錯誤を。

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去年1月亡くなった半藤一利の追悼ということで、「本の話」サイトに「半藤一利の警告 政治家のウソを見逃すなかれ」という記事がありました。その冒頭に、

 「戦争とはウソの体系である」という言葉がある。何の本で読んだのか、教えてくれた人がだれであったか、まったく忘れてしまったが、ときどきフッと頭に浮んでくる。

とあったので早速検索したら、以前にブログで引用したカール・クラウスの言葉だったので納得しました。さらに半藤は、

 その老骨が、いまの日本国のあり方にはホトホト呆れかえっている。・・・この国のこのようなあり方は、わたくしなんかには国際社会に恥をさらし、疑われ、孤立に突き進むだけであると思えるのである。

と書いていました。国際社会への恥さらしの仕上げが国葬だったなんて、半藤も予想しなかった喜劇。

 喜劇映畫觀てゐるときもすぐ其處(そこ)に冷たき光洩る非常口   (塚本邦雄:装飾樂句)

患者によるべけれども

徳山なお。

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日本の4人に1人がすでにコロナ感染というニュース(厚労省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードのPDF)に驚きました。ワクチン接種と感染では抗体の種類も違うそうです。
せっせと5回もワクチンを打ったpithecantroupusもどこかで感染してたかもしれません。

そういえば今夏に何もする気がせず倦怠感ばかりの日々がありました。
そうか、庭の雑草が伸び放題になり、部屋が片付かず、掃除機をかけずにホコリだらけの居間はコロナによる倦怠感のせいだ。
そしていまだに後遺症が続いているに違いない。(汗)

 患者によるべけれども、「琴線炎」てふ病名がなにゆゑあらぬ   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

紐と糸

変り映えなし! 進歩なし! 困ったもんです。

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以前に吉本隆明『フランシス子へ』を教えてくれた“tree”というサイトで。吉本の続きに嫌いな作家森村誠一が紹介されていました。嫌いだけど文が面白かったので一部を引用します。(モフり庵ー作家とねこー 森村誠一『ねこの証明』より「運命の猫」の一部)

 なぜ猫なのか。猫は犬ほど人間の役に立たない。たとえば強盗が入ったり、飼い主が窮地に陥ったりすると、犬は命を賭して主人を守ろうとする。だが、猫は真っ先に逃げ出してしまうであろう。飼育目的別にしても、犬は愛玩犬をはじめ、番犬、軍用犬、警察犬、牧羊犬、猟犬、闘犬、盲導犬、救助犬、輓曳(ものを引く ※パトラッシュは牛乳の荷車を曳いてました!)犬と多彩である。

 それほど人間に役立つ犬に比べて、猫は家の中でのらくら眠っていたり、日向ぼっこをしていたり、ほとんどなにもしないのにもかかわらず、・・・人間同様に待遇されている。この差別はなぜであろうか。

 飼い主にしてみれば、理由などない。とにかく自分の猫が可愛くてたまらないのである。飼い主にとっては愛猫の仕種一つ一つがどうしようもないほど可愛らしい。・・・猫が常に視野の中に入る家庭は安定感があって平和的である。

 ・・・人間と犬は紐で結ばれているが、人間と猫は運命の糸によって結ばれているような気がする。


ツリーで。ほら、せいきんげツリって。
 星菫月李(せいきんげつり)つめたししかもたましひの死地へ初陣をいそぐ 男は   (塚本邦雄:星餐圖)

帝国跡

京都をいくら掘っても同じような写真しか出てこないので、10ウン年前京都へ行った2日後に行った岐阜県徳山の写真で。
でもやはり変り映えはしない写真でした。トホホ。

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数日前に小津安二郎「東京物語」がニュースになっていたので、與那覇潤『帝国の残影 ~兵士・小津安二郎の昭和史』(文藝春秋社)の書評から引用します。
『東京物語』と同じ1953年公開の木下惠介『日本の悲劇』と比較しつつ書いています。

 クリエーターの間では時折話題になるのだが、物語は大きく「現実直視型」と「ファンタジー型」の二つに分けることができる。

 「現実直視型」とは、『日本の悲劇』のように、社会問題をありのまま描いた作品群である。自称知識人が褒めそやし、映画賞や文学賞の候補になるのはもっぱらこの「現実直視型」だ。なぜなら彼らは、社会問題をある種のエンターテインメントとして受容できるだけの余裕があるからである。
 しかし大ヒットしたり、歴史を越えて残る可能性があるのは、いつの時代も「ファンタジー型」である。批評家たちに「社会に対する問題提起がない」「都合のよすぎる展開に辟易」などと批判されることの多い「ファンタジー型」だが、それは批評家が自らが特権的な階級に所属していることを忘れているからだ。

 やがて小津安二郎は「いちばん日本的だと日本人が思っている映画監督」と評されるようになる。実際の日本や日本国籍保有者が多様である以上、「日本的」というのは、ある種のファンタジーに過ぎないわけだが、なぜそれを小津映画が担うことができたのか。


 冬空の中央に緋の孔うがち大日本帝國跡を視よ、凧(たこ)   (塚本邦雄:汨羅變)

蓮に風

フーッ。

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うさぎ、カメラ、煙草。年賀状のデザインにシガーつかったら顰蹙を買うかなぁ。
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川本三郎「ひとり遊びぞ 我はまされる」(平凡社)の著者インタビューから。
書名は良寛の有名な歌からとったものだそうですが、インタビュー記事の副題『好きなことをして老いる』に惹かれました。
彼は『ローカル線、台湾、荷風が、今私の好きな三本柱です』と言って、その荷風について、

好きな作家を持つのは大事ですね。自分が年をとると、太宰治や芥川龍之介のように若くして亡くなった作家に、興味がなくなってくる。79歳で死んだ荷風は老いを知っています。最初から新しさを目指していなかったので、古びないのです

軍人や政治家でなく、市井の一作家を通して見た小さな昭和です。荷風は物価や生活、風俗も細かく記している。空襲に遭い地方を転々するなど、日本人の悲劇も体現しています。(いま雑誌に書いている)連載があと何回かで終わるので、さびしくて。この4年ほど書いている時は、本当に幸せでしたね


永井荷風の筆名について、「十六歳の時、入院した病院で、世話をしてくれた看護婦さんの名が「お蓮さん」▼少年は恋した。この恋はかなうことはなかったが、それを筆名とした。蓮(はす)の別名である「荷」。それになびく「風」だから荷風なのだろう▼」(東京新聞 筆洗 2020年9月1日) というので、

 呵々大笑して恕(ゆる)したるおもかげのうすずみいろに夕風の蓮   (塚本邦雄:花劇)

淡塩(うすじお)

ようよう週末ですがこっちは明日に予定外の仕事です。ピロリ菌のクスリ飲んだけど効いてるんかなぁ。胃薬ばかり飲んでるけど。

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NHKの番組で出演者が「しよっぱい」と言ったので一瞬どんな味と思ってしまいました。NHKなら「塩辛い」と言うと思ってました。
pithecantroupusは「しょっぱい」という味に実感はありませんし、ついでにいえば、同じ番組に出てきた「えんみ」も?です。「しおあじ」とか「しおみ」なら分かるのですが。

 淡鹽(うすじほ)の落鮎啖ひつつ寂しその薄暮(かはたれ)の「長秋詠草」   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

魔術

京都でも何撮ってるのと。

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馬込文学マラソン」というサイトに芥川龍之介「魔術」が紹介されていました。

小説の中で芥川は『マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。ミスラ君は永年印度の独立を計っているカルカッタ生れの愛国者で、・・・』と書いていますが、「馬込文学マラソン」で、

実は『魔術』が発表される3年ほど前、谷崎潤一郎が『ハッサン・カンの妖術』という小説を書いていて、マテイラム・ミスラが出てくる。たぶん架空の人物だろう。それを芥川はまことしやかに引用したというわけ。“実在した”といっても、谷崎の小説の中に。

と種明かしをして、

架空のことと分かり切っていても、引用されるとき、そこに不思議な真実味がかもし出される(歴史修正主義者などが悪用しそう)。 これも一種 の“魔術” と言えなくもない。

と続けています。
芥川と谷崎のミスラには大分差があるように思いますが、引用と部分のつまみ食いでだまされました。なお、このサイトの続きで芥川龍之介の妻の話が出てきたので、古い雑誌(1959年 それいゆ)の写真をペタッ。

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 冷えてゆく坩堝の金の熔液に沈みきらない魔術師のゆび   (塚本邦雄:水葬物語)