おいつめられ

むかし岐阜県坂内村へ行ったようです。
イヌとアロエなんて何処で撮っても同じですが。

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みんなのミシマガジン連載「おせっかい宣言」に60代の筆者が書いていました。

 あんなに結婚を忌避し、事実婚に憧れ、フランスは違うよな、とか言いながら、自由な男と女のつながりを模索していた(はずの)私たちの世代であるが、何かどこかで大きな間違いをしたのではないか、次世代にも重要なことを伝え損ねていないか、と深く反省したりしているが、すでに遅過ぎる気も、とても、するのである。ごめんなさい。(三砂ちづる「結婚」

でも事実婚の評価は日本の今の行政下の話だから、彼女は国の制度をまな板にのせるべきではないかと思うのです。
だから結婚の話として読むとムカムカしてしまうのですが、若いころに何かとんでもない大間違いをしたのではないかという気持がよく分かるので引用しました。

 蟻、薊、あひる、雨傘、汗かきの兄が結婚に逐ひつめられて   (塚本邦雄:綠色研究)

かくきよらかに

オリンパスフレックスは、就職してマミヤC33を買うまで、親から借用して使っていました。
ワルツのフラッシュ・ガンもおまけして。

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ワルツなので、
 母ならざればかくきよらかに老娼婦立ち かすみたつ黑森(シユワルツ・ワルト)   (塚本邦雄:綠色研究)

NHK日曜美術館で牛腸茂雄を取り上げていました。TVでは双子の写真をさかんに持ち上げていましたが、本人にとっては有難迷惑な話だろうと思いました。
ダイアン・アーバスの影響が強すぎます。アーバスが撮った畸形の写真を見たとき、かれは撮られた側と撮った側の両方が理解できたと思います。だから彼女の写真を真似た。森山大道は、ウィリアム・クラインンの表現が現代写真の普遍性を獲得したので、今日の写真家としての位置を得ているけど、アーバスの問題意識はまだ時代の意識の先を行っているので、それが追いつく時に牛腸はきちんと評価されるだろうと感じます。

番犬

気ばかりせいてなにも前に進まないときは、古い写真から一枚だけ現像して。
何処にでもありそうな景色です。

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”副総理も国葬に”なんていうことになっていかないか心配だから、のど元過ぎたからといって過ちを繰り返さないように引用して記憶します。(「ヘタレの朝日、物言う地方紙」 安倍氏殺害事件、国葬、旧統一教会の報道をめぐって)
産経や讀賣と、河北新報の社説を引用しつつ、朝日の報道の経過が書かれています。

 踏ん張っているメディアもあれば、朝日新聞のようにヘタレ具合が深刻なメディアもある。公権力に対して吠え続ける番犬は、健全な民主主義社会には不可欠だ。その番犬がおとなしすぎる。(同志社大学教授 小黒純)

 番犬主水(もんど)ディステンパーに身罷りて白牡丹昨日今日眞盛(まつさか)り   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

玩具蒐集癖

今日と昨日のこけしは父から拝借しました。黙って持ってきたから拝借でもないけれど。

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コスモス(?)も。
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 栃の花雨夜ににほひ大伯父の玩具蒐集癖死ぬるまで   (塚本邦雄:豹變)

らべる一箱

気に入ったウサギが見つかりませんが、季節がめぐってきたので。

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きのうと同じアカソバで色気を。
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 精神科医斎藤環「亡き王女(猫)のための当事者研究」は前にも引用したような気がするのですが、やっぱり面白いので。ペットロスの話なので“面白い”は不謹慎ですけれども。

 猫に狂った12年間だった。猫狂いの妄想は枚挙に暇がない。チャンギ(※ 亡くなった飼猫の名前)は喋れる。チャンギは気配りをする。チャンギは時々私たちを見下している。チャンギを“吸引”しなければ文章が書けない。息子の口癖は「チャンギが一番可愛い」だし、妻は私の知らぬ間にチャンギの唄を作詞作曲していた。

 狂気のきわめつけは、私たちの経験したいくつかの幸運を、すべて彼女がもたらしてくれたと確信していることだ。いろいろ尽力してくれた人間様には申し訳ないのだが。だから、これからはチャンギ教を信仰すると口走りはじめた妻を止める気にもならない。


亡き王女のためのパヴァーヌはモーリス・ラヴェルの曲だそうですから”らべる”で。
 血紅の燐寸(マッチ)ならべる一箱がころがれり はたと野戰病院   (塚本邦雄:魔王)

さいけつの

きのうまで何処といっていたのは長野県だったようです。きょうのが中川村ですから。

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目的はアカソバだったようです。
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先日も引用した「読むらじる。」に茨木のり子が取り上げられた回が紹介されていました。
文学紹介者という肩書の頭木弘樹が語っています。

頭木: 夫について詠んだ詩は箱に入れてしまっていたんです。自分が死んだあとで出版されるように頼んであって、生きている間は出さないと決めていたんですね。

頭木: どうして出版しないのかと聞かれると、「一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさい」と、そんなふうに答えていたそうです。でもある知り合いには、こう言ってたそうです。

 出版されたら私のイメージは随分と変わるだろうけれども、それは別にいいの。どう読んでもらってもいい。ただ、これについてはどなたの批評も受けたくないのでね。(後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』中公文庫より)

頭木: 茨木のり子さんが亡くなったあとで『歳月』というタイトルの詩集として出版されるんですけど、これがいちばんいいと評価する人も多いんです。でも、そうやって評価されるにしても、とにかく何も言われたくない、と。


『どなたの批評も受けたくない』って同感するなぁ。

歳月と採血はほぼ同じなので、(?)
 採血の男に腕(かひな)扼されて血は獻じたれ愛の纐纈(かうけち)   (塚本邦雄:黄冠集)

オンザロードの夢

何か撮ろうとしても何も頭に浮かんできません。
憧れてばかりでじっさいは正反対の現実です。

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うさぎを撮ってみましたがどうにもならない写真でした。
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憧れているのは「オン・ザ・ロード」。
雑誌ブルータスの村上春樹特集をパラパラ見ていたら、かれの愛読書51冊が列記されていたのですが、ジャック・ケルアック「オン・ザ・ロード」が出てこないのが不思議でした。ディランもレノンも読んだ「オン・ザ・ロード」。

「最初の発想がベスト、頭に浮かんだことをそのまま書く」(ケルアック)

ロードの代わりにロドルフォで、
 ロドルフォのアリア歌つて毆られし護國の鬼の六十回忌   (塚本邦雄:汨羅變)

わらの上

10年以上前は確かだけれど何処だったのかとんと思い出せないまま夢の中だったかもしれないと思い始めたpithecantroupusは今日も情けないことに数で勝負。

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 歌滿ちてうたはぬわれと藁の上に病める牡牛のやさしきおもさ   (塚本邦雄:感幻樂)

壁ごしに

ここはどこだったのか。思い出そうとしてもダメだぁ。

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NHK読むらじるに和田秀樹『80歳の壁』の著者のインタビューが載ってました。
単純に信用してはあぶなそうな話ですが、自分に都合のいいところだけ少し引用します。

 好きな酒をやめるとか好きなタバコをやめるとか、いずれにしても、いろんなことを我慢しないでいるほうが、本人にとってはストレスのない幸せな暮らしになるわけですよね。逆に、我慢している自覚があって「本当はこれをしたいのに」とか「本当はこれを食べたいのに」と思っていると、そのストレスのほうが実は高齢者には影響があります。・・・我慢をすると免疫力がすごく下がっちゃうんですね。

 私はたぶん6000人ぐらいの高齢者を診てるんだけど、医学常識と違うことがいっぱいあるんです。・・・がんだって知らないで死んでるわけですよね。これはずっとがんを“飼って”いて、知らぬが仏でわりと健康に生きておられたということを意味するわけです。

 特に70代、さらに80代と、年をとればとるほど意欲が大事なんです。・・・「もうダメだ」なんて思っちゃうと、そうでなくとも年をとったら意欲が落ちてるのに余計やらなくなっちゃうから、「やってみないとわかんないじゃん。なんとかなるよ」と思うことが非常に大事だと思いますね。


 壁ごしに聞える彌撒(ミサ)に不覺にもこゑあはせたる老娼婦たち   (塚本邦雄:装飾樂句)

ウサギつながり

ウサギつながりで、きのうの写真を撮った日の京都で。

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海外のウクライナのニュースではドローンによる攻撃に”KAMIKAZE"のテロップが入っていますが、民放もNHKも「かみかぜ」という言葉はけっして使いません。使えば「英霊に対して」という抗議が殺到するでしょう。言葉は難しいなぁ。

 神風の伊勢にしあればちちのみの父の訃(ふ)に身も冥(くら)みゆくかな   (塚本邦雄:源氏五十四帖題詠)

予感あり

京都清水坂ちかくの河井寛次郎記念館へいったひと昔前にこっそりなでなでしてきたウサギを。

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季節感のある写真でお口直しを。
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先日引用した穂村弘『読書日記「本から顔をあげると、夜が」』第七回から、前回とは違う個所を引きます。
この回は大林宣彦「時をかける少女」の話から始まっています。なので題は『タイムトラベラー、或いは運命の人』。
原田知世に刺激されて原作を読んだ筆者は、いつかだれかがわたしの前にあらわれるという予感に、

・・・これだよなあ、と思う。「万人の心の奥に眠っているであろう何か」、それはいわゆる恋愛の枠を超えた運命的な出会いへの憧れだ。あの映画のラストシーンには、この感覚が見事に可視化されていた。それから、あれ? と思う。似た感覚を他のところでも見た気がする。
 思い出したのは、こんな短歌である。

名も知らぬ小鳥来りて歌ふ時我もまだ見ぬ人の恋しき (三ヶ島葭子)

 三ヶ島葭子は1886年生まれ。だが、「まだ見ぬ人」が、だからこそ恋しい、という感覚は百年後の「時をかける少女」と共通している。「ラベンダーのにおい」とか「名も知らぬ小鳥」の「歌」ってところがまたいい。それらは遙かな予感の別名なんだろう。


もう残された時間が少ないというのに、まだ見ぬ人が早く来てくれないと時間切れになるかも。


 急速に日本かたぶく豫感あり石榴をひだり手に持ちなほす   (塚本邦雄:汨羅變)

皇が幸

10月が天中殺でした。天中殺が話題になった頃に本を読んで調べたことがあます。天中殺だからなぁ。
来年に期待してウサギの写真を。
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うしろ姿では分からないですね。お口直しに残りものですが。
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 「天壌無窮の幸運」とこそ聞きゐしか 卯の花腐(くた)し人間腐し   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

僕失踪

おつかれですのでやっと一枚。

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 われの髪膚にこの夕まぐれ北海の海苔の香のこし 僕(しもべ)失踪   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

”しもべ”でなく”ぼく”と読みたい今日のpithecantroupus。

若草色

3年ぶりに「おわら風の盆」が実施されたそうで、おかげで来年のカレンダーを昔の恩人からいただきました。
感謝の気持ちを記憶するためにパチリ。

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東京工芸大学のKOUGEI PEOPLEに載ったリレー連載から、鈴木万里基礎教育教授「『若草物語』の作者オルコットの隠された一面」の一部を。

オルコットがA.M.バーナードというペンネームで書いた、女性がみずからの強靱な意志、知性、行動力で社会的地位と経済力を獲得して、彼女をさげすんだ人々を見返すという『仮面の陰に あるいは女の力』(1866)が最近翻訳されました。

この結末にオルコットの隠された一面がみえるように思います。扇情小説を執筆し続けたのは、手軽にお金が稼げるからという理由だけではなく、本当に書きたい物語だったからではないでしょうか。女性が思うままに自分の力を発揮して、偏見をものともせず、幸せをつかみ取る物語を渇望していたのでは?と思えるのです。しかし、本音を書くには性別不明のペンネームを使う必要があったのですね。


パステル色の記憶が吹き飛ばされて、素っ裸を見せられたように思うのはpithecantroupusのジェンダーバイアスのせいでしょう。
知りたくなかったなぁ。

 心毒はしづかに六腑めぐりをり若草色の健康保險證   (塚本邦雄:不變律)

数ある中に秋桜

一昨日のコスモス畑の残りもので。

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m.zuiko 20mm 1.4
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m.zuiko 20mm 1.4

「北欧、暮らしの道具店」というサイトに穂村弘が書いている連載『読書日記「本から顔をあげると、夜が」』第七回から。
彼は、特急あじあ号の切符、飛行船ツェッペリン号の絵葉書、超音速旅客機コンコルド号の機内メニュー、向ヶ丘遊園のモノレールのパンフレットなど既に存在しない幻の乗り物関係の品をオークションや蚤の市で買ったそうです。

 物欲そのものは加齢とともに減っているのだが、別世界の幻を集めたい気持ちだけはむしろ強まっている。・・・
 この習性って、なんなんだろう。失われた過去や遙かな未来といった別世界ばかりに心を奪われて、現在の実生活への意識はまったく疎かというか、邪魔すんなくらいに思っている。私自身は今ここにしか生きていないのに。いったいどういうつもりなのか。たくさんの幻たちに囲まれて、何がしたいのか。自分でもわからない。「地上とは思い出ならずや」と云った稲垣足穂に訊いてみたくなる。(穂村弘「タイムトラベラー、或いは運命の人」)


 殺󠄀し方數ある中に秋櫻家秘傳、歌人(うたびと)の飼殺し   (塚本邦雄:獻身)

風甘し

中性脂肪値の上昇が気になるといいながら誘惑に負けたpithecantroupus。この悔悟を記憶するためにパシャ。

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東北大学創立115周年・総合大学100周年を記念して企画され白松がモナカ本舗から発売された「吾輩は羊羹好な猫である」(ミニヨーカン4個入り)です。
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きのう引用した「うそつ忌」をネットで検索しても見つからないので、あれは執筆者が考えた言葉だったのだろうと想像しています。
元首相へ辛辣な眼を向けている筆者ですが、「うそつ忌」という言葉がインパクトと同時に内包する下品さが、それを自分の言葉とすることを躊躇させたのではないか、と思うのです。

 海の微風甘し生よりすみやかに遠ざかり來し藍のくちびる   (塚本邦雄:されど遊星)

うそつき

若い女性がコスモス畑で僕を呼んでいると思ったら案山子でした。呼ばれるはずないもんなぁ。

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m.zuiko 20mm 1.4
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dg summilux 12mm 1.4

前にも引用した金井美恵子「重箱の隅から」の最新記事から。

筆者は、去年のオリンピック・パラリンピック大会について「日本中が熱狂した」とさらりと言うアナウンサーや、元首相の死を、彼が思想的に民主主義を体現していたからという理由でなく別の理由で、民主主義への挑戦だの否定する暴力というメディアに皮肉な目を向けつつ書いています。

もうはるか以前、長期に亘ってその座を独占した首相になる以前、今では思い出す者も少ないようだが、NHKの従軍慰安婦を巡るドキュメンタリー番組の担当者を呼びつけて、普通に考えれば権力を笠に着て脅したというエピソードを誰でも知っているはずだが、と思いつつ、もう一枚の切り抜きに眼がとまる。

ʼ21年8月、・・・3人の識者(加藤陽子、長谷部恭男、杉田敦)による「考論」の中で、元首相が「一部の人にとってはアイドル=偶像だった」らしいことを初めて知ったのだった。アイドルというのは、長谷部によれば「観衆が自分の思いや願いを投影」できる、「自分のために歌ったり踊ったりしてくれるんだ!と意味づけることが」可能な存在で、だから、アイドルはアイドルでいられる、というのだが、若い頃から、芸能界のアイドルにも政界のアイドルにも、とんと興味のない者としては、まるでピンと来ない考えで、たまたま今朝の朝日新聞(8月30日耕論「安倍元首相にみる「偶像」」)では、元首相が「アイコン的存在と見られていた」のは、どうやら学識的な社会現象のようなのだ。


ところで記事の続きで、事件後、7月8日がネット上では『うそつ忌』と名付けられてもいるらしいと初めて知りました。
 嘘つきの聖母に會って賽銭をとりかへすべくカテドラアルへ   (塚本邦雄:水葬物語)

晩年番犬

本屋で来年の手帖を物色していて、ああウサギと気がつきました。そろそろ準備を始めなくっちゃ。

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前にも日経ビジネスの小田嶋隆を引用しましたが、彼の亡くなった日の日付で載った、小田嶋執筆の過去記事から。元は「晩年」に関するコラムですが、最近は素人が達者な文を書くというくだりから、

 私のような職業的な書き手と彼らのようなアマチュアの凄腕に差があるのだとすれば、「職をなげうっているかどうか」だけだ。
 つまり、文章を書くことを専業として食べて行けるのかどうかは、もはや才能や筆力の問題ではないということだ。ライターとして独立できるのかどうかは、ひとえに「いま食えている仕事を投げ出すことができるのか」にかかっている。
 いかに達者な文章を書くからといって、ライターという稼業が、独立研究機関の研究職や航空会社の地上勤務の職を蹴飛ばしてまで挑む価値のある仕事であるのかといえば、はなはだ疑問だと申し上げざるを得ない。

 しかしながら、時代は変わっている。
 しばらく前から、ライティングにまつわる作業は、ライターの専業ではなくなってきている。
 10年もたてば、文章を書くことだけで生計を立てている専業の書き手は、現在の半分ほどに減っているかもしれない。
 ライティングの仕事が消滅するわけではない。
 たぶん、業界は専業の書き手よりも「書ける素人」を希求している。
 というのも、文章作成は、志を持った者が生涯をかけて取り組むべき課題である一方で、収入や作業時間といった諸条件から勘案すると、むしろ副業に向いた仕事だからだ。


晩年のかわりに季節外れの「番犬」で、
 番犬主水(もんど)ディステンバーに身籠りて白牡丹昨日今日眞盛(まつさか)り   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

崩れるよわい

きのうにつづき、目的もなくお昼ご飯のついでに持ち出したカメラで撮った一枚を、クズ籠の底から。

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7artians 35mm 0.95

 秋冷の肝(かん)にひびきて頽齢といふことばあり くづるるよはひ   (塚本邦雄:不變律)

脳くもり眼かすみ

クズ籠の中に頭を突っ込んで一枚だけ。しかもピントがあやしいけれど、ここはツラの皮を厚くして。

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これまで二回引用した白水社のweb連載、四方田犬彦「老年にはなったけど…」の第3回「蝸牛のごとき勉強について」からすこし長いのですが、

 重い辞書を本棚から引き摺りだし、机の上に拡げてみる。お目当ての言葉はただちに見つかった。やったねと思った瞬間、わたしはあることに気付く。その単語の説明を読んでいくうちに、例文のひとつの下に万年筆で傍線が引かれているのだ。
 万年筆を用いなくなってもう長い歳月が経っているのだから、これは相当昔、おそらく大学院にいて論文を書いていたころに引いたものだろう。・・・そこで気になって、その例文に使われている別の単語を調べてみると、その項にも同じ万年筆で傍線が引かれている。しかも細かな字で、書き込みまでがなされている! 
 何ということはない。わたしは40年以上前に調べ、勉強したつもりになったいる単語をすっかり忘れてしまい、一冊のぶ厚い辞書のなかで、まったく同じ経路を辿って調べごとをしていたのだ。
 こうした体験が二度三度も続くとだんだん心配になってくる。いったいこの40年にわたって自分は何を勉強していたのだろう。・・・調べては忘れ、調べては忘れという作業をただただ繰り返してきただけではないか。


 水無月(みなづき)は腦(なづき)くもりてしのはらにあと絕つしろがねの蝸牛((かたつむり) (塚本邦雄:銀箭)

たがために甘き

きのうネコの話を引用したのでネコつながりで奈良のネコを。

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ついでにときどき引用する河北抄から、

甘党だった夏目漱石は小説『草枕』で好物のようかんを美しく描写している。
 「あの肌合(はだあい)が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ」。ようかん一つがわずか一文で輝きだすのだから、文豪というのはやはりすごい。


ネコが出てこない?
いえいえ、このあと文は続いて、仙台の老舗和菓子舗が、『吾輩(わがはい)は羊羹好(ようかんずき)な猫である』という羊羹を発売したとありました。東北大付属図書館に漱石蔵書があることにちなんでだそうです。

糖尿病ではないけれど中性脂肪値が気になるpithecantroupusは、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と悩んでいます。


塚本邦雄が静岡県田方郡天城湯ヶ島町青羽根という地名から読んだ歌。
 誰(た)がために甘き眠りも絕え絕えの夜々(よよ)かや靑き羽根の蜻蛉(あきつ)よ (塚本邦雄:新歌枕東西百景)

つゆしらず

またむかしの奈良で。

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グレゴリー・J・グバー「「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた」の書評から孫引きします。(webゲンロン 菅浩江「みんなネコのおかげ」

 J・F・ドフューによる1758年の物理の試験問題。

「問九四 三階から道に投げ落とされた猫は、落下の最初の瞬間には四本の脚が上を向いていても、四本すべての脚で着地して怪我一つしない。なぜか」

「答 猫はある種の本能的な恐怖に突然襲われ、(略)重心が下がると、身体が回転して腹や頭や足が地面のほうを向く。そうして最終的に四本の脚で着地し、ますます生意気になる。」

 ますます生意気になる!
 ああ、この人はネコが大好きなんだ、と思わされた一文だ。



 つゆしらぬ間に露しとどあからひく露國がずたずたの神無月   (塚本邦雄:魔王)

忙しいけど死ぬほど退屈

お昼ご飯のついでに、これといった目的もなく持ち出したカメラで撮りました。
だから何も写っていないのです。

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m.zuiko 17mm 1.2

忙しいといいつつ満たされない思いの日々は、退屈な夏休みの最後の一週間の気分です。
ホームレスが売る雑誌「ビッグイシュー」の『小学生に宿題は無意味?/「退屈」することで子どもは初めて自分の頭で考える』から一部を引用します。

イギリスの哲学者、数学者、歴史家で、1950 年にノーベル文学賞を受賞したバートランド・ラッセルは、1930 年に発表した著書『The Conquest of Happiness』 (邦訳は『幸福の獲得』『ラッセル幸福論』など複数あり)の中で、
小さい頃に育むべきは「想像力」と「退屈をやり過ごす能力」という。さもないと、退屈に耐えられない、内なる衝動が衰退していく凡人だらけの社会になってしまうと。

退屈とは自己調整のメカニズムがうまく働かず、今いる環境下のタスクに集中できない状態。退屈を回避するカギは自制心。自制心がしっかり働くほど退屈を感じることが減る。

退屈は「体内アラーム」と考えることもできる。アラームが鳴ると、今の状態に満足できてないというサインで、何か違うことをしようという気にさせるもの。生かし方が分かっていてこそ「退屈」は価値あるものになるのだから、我々は日頃から自分のこと、好きなこと、自分にとって大切なものをしっかり把握しておく必要がある。

つまり、退屈はそれ自体に価値があり、必ずしも消極的なものではないのだ。刺激への欲望が満たされていないということなのだから、その欲望を満たせば退屈感は和らげられるのだ。そう、「退屈」はクリエイティブな状態でもあるのだ。
アインシュタインも言っている。「静かな生活の単調さと孤独が創造力をかき立てる」と。


季節外れですが、
 死ぬほど退屈などとな言ひそ花冷えの夜の越天樂(ゑてんらく)わがこころ越ゆ   (塚本邦雄:不變律)

のちの日のおもひでのため

あれこれ多忙につき変り映えしないものですみません。お詫びのしるしにいつもより一枚増やしておきます。(汗)

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 萩繚亂ふみしだきつつのちの日のおもひでのためにのみけふを生き   (塚本邦雄:獻身)

十九萬時間

奈良、でしょう。

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バラエティ番組の司会が駆け出しのお笑いトリオを、「ピン芸人」と紹介したのでTVに向って「ちがうだろ」と声が出ました。
老化かかなぁ。
pithecantroupusが生まれた頃の世界人口は30億人以下だったのが今や80億人。速いなぁ。
「時間よ止まれ」という科白だけが記憶に残っているTVドラマがあったなぁ。

 銀木犀燦燦と零(ふ)り不惑より九十まで四十三萬時間   (塚本邦雄:魔王)

こころもそらの

奈良。だと思う。

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きのうにつづき、エッセイスト・クラブの会報からドリアン助川を一部引用。

自分のブログで、私はこの(脚を痛めた)顛末を書いた。今、びっこをひいて歩いていますと。すると、すぐに反応があった。痛みに対する同情ではない。私の言葉に対するお怒りというか、お叱りというか、つまりそういうものである。

「びっこは差別語ではないですか。言葉を扱う者としてそれでいいのですか」

いきなりこう来られて、しばしの間私は呼吸のみの人間となった。
本の原稿や新聞記事を書いているなら私も注意を払うだろう。しかし、自身の足の具合を自分のブログで綴って
もこういう反応が来る時代になってしまったのだ。なんだか狭いドラム缶に胴が挟まってしまったような気分だった。
日本エッセイスト・クラブ会報2020年夏

 奈良伽藍こころもそらの少女らが夏のかぎりを囀りつくす   (塚本邦雄:閑雅空間)

悔しいから

ことしもヒガンバナ撮りは一回だけで終わりそうです。悔しいからむかしのヒガンバナで。
ここは10ウン年前の奈良のようです。ポスターがそう言ってます。

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まえにも引用したエッセイスト・クラブのサイトから、

それにしても、パブリックの場での言語の空虚化は進むばかりだ。国会中継でしばしば見る光景だが、質問とは意図的に擦れ違った内容の答えをする、再度の質問にも同じ言葉を繰り返す。もともと説得するつもりもコミュニケーションするつもりもないのだろう。一九五〇年代に書かれたサミュエル・ベケットの不条理劇の舞台が生きた現実となっている。例えば、「桜を見る会」の参加者について「幅広く募っているという認識でございまして、募集しているという認識ではなかった」と前首相は答えた。この言葉、コントのギャグではないとすれば、どう解釈するか、国語の問題としては難しすぎる。日本エッセイスト・クラブ会長 遠藤 利男「九〇にして自粛記」

それに議会場でとなりのお友達とにやにや話しながら、野党の女性議員に「はやく質問しろよ」とヤジをとばす。自分がヤジられると誰が言ったと青筋たてる。忘れないようにするため、引用しときます。


 チェロを請(う)け出す靑年二人まほろばの奈良市杏町(からももちやう)の質店   (塚本邦雄:波瀾)

死んでもいい

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dg elmarit 200mm 2.8
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laowa 25mm 0.95

きのうの玄侑宗久の話は、潜水艦のウサギ係の水兵なんて聞かないし、映画やドラマにも出てこないからウソでしょう。
坊主はウソをつくと思ったけれど、こちらの人はどこまでもウソはつかないと感じます。

わたしはその時、「悪いことをして冒険してみたい」というより、「これで死んでしまってもいい」と思っていたのである。それが当時のわたしの暗澹とした現実だった。小田嶋は、地下鉄の線路くらいに暗かったわたしの実存の闇を、命がけでいっしょに歩いてくれた友だったのである。

 しかもわたしは、そのことを30年以上も忘れていた。小田嶋の話を聞いてはじめて、そんなにも長い間そのことを忘れて、自分の人生を生きてこられた、ということを発見したのである。自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた。だから今では、それを思い出したり話したりしても平気である。気がついたら、そういう自分になっていた。そのことを、小田嶋との再会が悟らせてくれたのである。忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう。
森本あんり「小田嶋さんへの手紙」日経ビジネス

ことし5月に亡くなった小田嶋隆への追悼文です、森本と小田嶋は、高校生のとき工事中の地下鉄に潜り込み、試運転中の電車に追っかけられ、2匹のねずみのように連れて行かれて駅でこっぴどく叱られたそうです。

 ありし日の「し」こそ眞實、刎頚の友消えうせて形見の長靴   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

100%ウソ

ヒガンバナ一枚だけです。

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いろいろと引用しますが”怪しいサイト”からは引かないように注意しているつもりです。でもときどき迷います。

きのうの阿刀田高MCCプログラムは慶応関係のサイトだから”怪しくない”と判断しているのですが、そこにある玄侑宗久 「もう一つの知の在り方」という話に出てくる子ウサギの話は困りものです。

この「気」の存在を感じさせる実話として、玄侑氏が教えてくれた話は、米国の原子力潜水艦で飼われている子ウサギの話です。
原子力潜水艦は、非常に深い海の底に潜ることがあります。そこではもはや無線さえ通じず、陸との交信ができません。そんな状況で、もし潜水艦に問題が発生した場合にはこの子ウサギの首をはねるのだそうです。すると、はるか離れた米国本土にいる親ウサギが尋常でない騒ぎ方をすることがわかっています。こうして、「気」の力を利用して、潜水艦の異変を伝えようということでしょう。


pithecantroupusの脳は100%ウソだと言ってます。
が、興味が搔き立てられたことは事実です。

 嘘つきの聖母に會って賽銭をとりかへすべくカテドラアルへ   (塚本邦雄:水葬物語)

神無月いざ

今のヒガンバナと10年前の駄知なお。

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以前引用した阿刀田高MCCプログラムの体験記。前回とちがう回から引用します。
記録者のほり屋飯盛は、阿刀田の講義が自殺した作家を続けて取り上げたので、「三島や太宰が若くして自殺する気持ちはわかるが、川端康成はなぜあの年齢で自殺しなければならなかったのか?」と阿刀田に質問したそうです。(ほり屋飯盛「ドーダ!な作家三島由紀夫」

(先生は)「作家は自分が書くものが常に一番だと思っている異常な人たちなんです。」と先生は冗談交じりに答えてくれた。作家という職業を選ぶ人は、他人をライバルだと思わない。なぜなら、自分が書くものが一番であって、他人が書くものは駄作だからである。
「比較対象は常に過去の自分だけなんです。」と力説した。
 
作家は現在の自分の作品を読み、「昔はもっと書けたのに」と絶望して自殺するらしい。素人から見れば、川端はノーベル賞も受賞したし、隠居して余生を過ごせばいいじゃないのと思うが、そうはいかないそうだ。
 
しかし、先生によると、書けなくなった後も、自殺せずに図太く生きる作家もいる。
石原慎太郎がその典型だという。常に一番でありたい石原慎太郎は、作家として超一流になれなかったから、次は政治家に転身し一流を目指したそうだ。


「昔はもっと撮れたのに」と自殺できないpithecantroupusは凡人!


 死は指の閒よりこぼるる神無月いざ行行子(よしきり)の鳴かぬ蘆刈れ   (塚本邦雄:されど遊星)

行ったり来たり

ヒガンバナと駄知を行ったり来たりするのは今と10年前を行ったり来たりしていること。

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 往かば還らじ還らば往かぬ詩歌にぞ一生(ひとよ)懸けたる 夜の白桔梗   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)