今すぐ下さい

ヒガンバナ撮りのよそ見写真を。窓が気になるのです。

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やっぱり、ヒガンバナに感謝の一枚も。
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dg elmarit 200mm 2.8

日本エッセイストクラブのWEBに岸恵子が自動車免許返納の顛末を書いていました。(岸恵子「高齢者の自覚」)
池袋暴走事故に言及した彼女は、

「むなしさに襲われた。二人は帰っては来ない」と言った後、夫であり、父である三〇半ばの若い被害者はしずかに呟いた。「悲しみ、苦しみ、怨み、憎む。人と争っているわたしは二人が愛してくれたわたしではない。二人に愛される自分に戻ろう」
 この言葉に感動して私の胸が震え、頬に涙が溢れた。
 「人生一〇〇年」などと飛んでもない言葉がもてはやされている。支えてくれる身寄りがない限り、今現在の人間にたった独りで快適な一〇〇歳をまっとうする力はないと私は思う。
 間違えてアクセルを踏み続けた事故当時八七歳の加害者は、嘗て高い要職について受勲したこともあるという。彼の悲劇は老いて劣化する自身の能力を自覚する能力が無く、それを指摘してくれる身の回りにも恵まれていなかった。
不幸なことと私は思う。


 シューベルトをお著け下さい今すぐシートベルトをお聽き下さい   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

禁を犯す

またヒガンバナに戻って、といいつつ、ちっともヒガンバナが主役になっていないのですが。

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dg elmarit 200mm 2.8

 禁煙車にて平然と禁を犯す置き去り廃車秋のゆふぐれ   (塚本邦雄:獻身)

アベ家から「国民の皆様、このたびは国葬にしていただき有難う御座います」と挨拶の一つもあってしかるべきと思ってしまうpithecantroupus。

大好き

駄知をもう一度。土岐市駄知は陶器の町でした。

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いろいろな人が4回ずつ書いているコラム「大好きだった」から作家鯨井あめの第4回目の一節。

(「大好きだった」という)エッセイのテーマを考えながら、私は何度もいしいしんじさんが書かれた『ぶらんこ乗り』の「ときどき暗闇で小箱から取り出すように思いかえす。これが大切。」という文章を思い出した。

やっぱり大好きだったものは、えてしていまも大好きなのである。宝物がガラクタになることはあっても、それはガラクタになった宝物なのだ。



「大好き」の好で、
 好色の極について借問(しやもん)さる大根膾供されてのち   (塚本邦雄:魔王)

借問を忘れてまた検索。「ちょっと聞くこと」「試しに尋ねること」とむかしは知っていたような気もするけど、頭の中の霧は晴れません(涙)。ところで、好色の極について質問された本人はかなりの助平なんだと変な感心もしてしまいました。

窃盗

三日坊主はヒガンバナが三日続いたことでお尻の辺りがむずむずします。
駄知の残りものでむずむずする辺りを拭きます。

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 少女竊盗團の一人はコリンズの『月長石』を隠してゐたが   (塚本邦雄:汨羅變)

竊盗の「竊」が読めずに検索してしまいました。少し前なら読みの予測が簡単に思いついたのに。とほほ。

わつとばかり

川はこわいけどなんとなく気になります。

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nokton 60mm 0.95

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きのう引用した伊吹和子「川端康成 瞳の伝説」にこんな一節もありました。

三島(三島由紀夫)氏は、
『何言ってるのよ。その些細なことが大事なんだよ。その細部が、小説を支えているんだよ。さっきの対談でも言ったでしょう、あれは、そういうとこのことなんだよ。あすこは生かして原稿作ってくれなきゃだめだよ』

と言われた。「あすこ」というのは、対談の終りに、文学批評について三島氏が、小説の質は細部で保たれているのだから、批評の際にも、ディテールを無視してはならない、と発言しておられる部分を指している。「月報」では、

『……だからそういうものの無視の上に成り立った批評は、いかに純文学を論理で擁護しても、擁護したことにはならないと思うんです。細部というもので楽しむ批評が出てこなければ、純文学擁護の批評にはならない。問題は細部なんだから』
と、三島氏が言われ、それを川端先生が、
『細部に意味をつけるんです』
と受けておられる。


やっぱり細部だなぁ。写真も同じだろうなぁ。でも細かいところに気がつかないのは海馬の縮小が進行しているに違いないなぁ。

 わつとばかり曼珠沙華 われ一人だに殺せぬ論敵をあはれまむ   (塚本邦雄:魔王)

眠れるフーテン老人

アマノジャクのヒガンバナ、なお。

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dg elmarit 200mm 2.8
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laowa 25mm 0.95

先日川端康成をあしざまに書いたら、こんな記事もありました。

『眠れる美女』は、三十七年度の毎日出版文化賞を受賞し、ドナルド・キーン氏は、『瘋癲老人日記』より高く評価しておられるが、当時の世評は逆であった。川端先生は、・・・『瘋癲老人日記』を絶讃され、谷崎先生はそれを無邪気に喜んでおられるふうであった。『瘋癲老人日記』には、昭和三十七年度の毎日芸術大賞が贈られている。

「僕はまだ瘋癲老人じゃありませんよ。あんなにはなっていませんもの。谷崎さんは前から大分そうですけど」
と、眼を光らせて悪戯っぽく笑いながら言われたことがあった。

先生の逝去後、今東光氏が、「あいつは信仰を持ってなかったからなあ。あの世なんてあるもんか、って思ってたからなあ」と、しみじみと嘆かれたことがあったが、川端先生は思索の場で、死の世界、または「魔界」に、自由に行ったり来たりすることが出来、それを文学に昇華させられたのであろう。(伊吹和子「川端康成 瞳の伝説」)


前回引用した文を書いたのは荻野アンナ、今回引用したのは伊吹和子。康成は女性にもてるなぁ。ちくしょう、うらやましいなぁ。


 ポール下獄せしかばわれは眠れるを月照りユーカリの凍れる紺   (塚本邦雄:水銀傳説)

裂帛の

7月21日から二か月ぶりの撮影にヒガンバナ好きの友人otibouさんが誘ってくれました。
記念写真を一枚だけ。

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dg elmarit 200mm 2.8

月刊「みすず」が休刊だそうです。
「図書」「波」「未来」「學燈」といった出版社のPR誌は値段が安かったので高校生でも手が出しやすく、「みすず」もそうした一つでした。サイト「WEBみすず」(仮称)を立ち上げる予定だそうですので期待して待つことにします。


 曼珠沙華しりへ數歩に裂帛の叫び殘してあとかたもなき   (塚本邦雄:波瀾)

期して

駄知の写真を色気色気と探しても花も異性もありません。かすかに見つけた花で。

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阿刀田高が慶應で行ったMCCプログラムの体験記から引用します。(ほり屋飯盛『阿刀田高さんと楽しむ【短編小説と知的創造】』
大江健三郎『飼育』をまな板に「ヒトを飼う」と題された回から、小説の最後の方で黒人兵が親しくなった主人公を人質にする展開に、

私はこの裏切りを書いた大江健三郎を素晴らしいと思った。
物語でも、実生活でも人間は人間に期待しすぎている。愛情を持って尽くせば、相手も自分に愛情を持ってくれると期待したり、悪人が実は良い人なのではないかと期待したりと、人間が人間に求めることが多すぎるのだ。

私はこのように期待する人間が嫌いだ。
人間なんて所詮は動物で、自然の一部なのだと教えてくれるのだ。


.期待してしまうなぁ。嫌われても期待するなぁ。凡人だなぁ。俗だなぁ。

 期して待つべし二十二世紀第三次薔薇戰争の血まみれの薔薇   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

禱るも

変り映えしない写真が続いてすみません。駄知。

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GQジャパンに武田砂鉄「今日拾った言葉たち」の書評が載ってました。

『暮しの手帖』初代編集長の花森安治の言葉を借りながら、まさに「今、暮しが軽蔑されている」と(武田は)言う。まさにそのとおりだと思う。日々の生活に真摯に向き合っている人たちの切実な苦しみの声に向き合うことなく、一方的に「自己責任」「自助」と言い放つ。そんなことはいいから、黙って「一致団結」して「スポーツの力で乗り越えよう」と耳障りの良い言葉で強制される。読み進めるうちに、私たちの日々を無視するような、この数年の空気や圧力のことが思い出された。言葉を流さず、拾って心に留めること、反芻して考えることは、暮らしのための立派な運動であり、積み重ねていくしかないのだ、とあらためて考えた。(贄川雪)

暮しを軽蔑してきた当の一人が「国葬」される日が近づくにつれ、エリザベスが2年前国民に語りかけた言葉を思い出しました。彼女は話し出してすぐに言いました。

私はNHS(国民保健サービス)の最前線にいる人々やケアワーカー、そして献身的に日々の仕事を続けて私たちを支えてくださっている人たちに感謝したいと思います。あなた方の仕事が高く評価され、その懸命な努力が刻一刻と私たちを普通の生活に近付けていることを、国全体が保証してくれていると確信しています。

メルケルも同様のメッセージを同じころに発信しましたが、そちらは当時ブログへ引用したので省略します。

砂鉄で、
 戰爭のたびに砂鐡をしたたらす暗き乳房のために禱るも   (塚本邦雄:水葬物語)

切棄て

駄知を。

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 長月(ながつき)の名を惜しむかな切棄てて戀淋漓たるあかがね蜻蛉(あきつ)    (塚本邦雄:銀箭)

そだちつつある刻々の

毎日吉野、洞川ばかりで目先をかえようと思いましたが、つぎの場所も同じような写真ばかりでした。
行き詰ってます。
土岐の駄知らしいけど。

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 眞珠、筏にそだちつつある刻々のいふならばそれも無明長夜(むみやうぢやうや)   (塚本邦雄:汨羅變)

湯に身を

台風が近づいてきて緊張します。伊勢湾台風のトラウマにまだとらわれてます。
写真もまだ洞川。

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 あつき湯に身を苛(さいな)みて洗ひゐる昨日(きぞ)のをさなき赤旗の旗手   (塚本邦雄:装飾樂句)

大写し

洞川温泉、なお。

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東大出版会noteに甲斐義明が自著『ありのままのイメージ―スナップ美学と日本写真史』の解説を書いてました。

 他人の撮った写真について書いたり、考えたりすることと、自分で写真を撮ることは、確かに行為の形態としては大きく異なっている。そのどちらかにしか関心がないという人がいるのも理解できる。しかし、写真というメディアには、「自分が撮った写真」と「他人が撮った写真」の区別を無効にし、さらには、「写真の作者」という概念自体を疑いに付すような力があることも指摘しておきたい。

さすが東大。簡単な話を分かりにくい言葉で伸ばして伸ばして書いてます。
pithecantroupusも「自分が撮った写真」とおなじくらいに「他人が撮ったエッチな写真」を大切にしてるもんなぁ。


東條の刑が執行されたのは12月ですが、自殺未遂は9月11日だったそうなので。
 カメラがとらへたる蟷螂(たうらう)の大寫し東條英機忌は一昨日(をとつひ)か   (塚本邦雄:魔王)

爪を立てて

吉野上市からさかのぼって洞川温泉、かも。

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感情移入の出来ない朝ドラを好評価する記事が『爪痕を残した』という見出しだったので、「エッ」と思いました。
足に比べて小さなツメでつけた傷というなら、否定的な評価だと思ったのに。

NHK放送文化研究所に「爪痕を残す」の記事がありました。『「爪痕を残す」を、「印象づける」といった意味で使う人もいますが、「おかしい」と感じる人もいるので注意が必要です』と書いてあって、調査結果が載ってました。

「今回の出演で爪痕を残すことができた」と表現することについて、「おかしい」と答えた人が60代で47%、「おかしくない」は20代で62%。きっとpithecantroupusの世代は「おかしい」が半数を超しているのだろうなぁ。

 不法駐車のロメオに爪を立ててゐる婦人警官のあはれ快感   (塚本邦雄:魔王)

塩となるべき地

まだ大和上市かも、多分。

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 男郎花(をとこへし)なかば溶けたる市(いち)の澤ここぞわれ鹽となるべき地か   (塚本邦雄:閑雅空間)

pinterestに胸の大きな女性やビキニの昔のアイドル写真が出てきて、どこでpithecantroupusの性癖が分かったのだろうと気味悪く思っていたら、今度は『虚報タイムス』という写真がつぎつぎ出てくるようになりました。
「インドで野生のトラ激減 バター品薄が長期化の恐れ」「埼玉県で海開き 県民悲願」「ひらがな「ぬ」廃止へ 国語政策会議」「松岡修造氏が原因 連日の猛暑」などなど、一瞬本当のことと信じそうになって、おい頭は大丈夫かと自問自答するpithecantroupus。

いろ消しゴム

吉野、吉野といいつつ、きのうきょうと大和上市だった、ような記憶がぼんやりとしてきました。(汗)

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昨日の分解の話も写真のことに牽強付会して理解しようとするpithecantroupus。
思い出したのは大嫌いな中平卓馬でした。

ある雑誌に中平が書いた「アナーキストは建築家になり得るか?」をある出版社のブログから孫引き。

 60 年代末期のあの学生たちの叛乱と彼らの「破壊のための破壊」も立派に建築家の仕事と考えることができるだろう。
 だが無念にも都市,建築の破壊は一手早く権力の側から、「列島改造」を進めている。
 それに対するわれわれの側からの都市の解体・破壊はいかなる形態をとるべきなのか。・・・今日の危機的状況を危機的に生きぬこうと決意した建築家に問われるたったひとつの問いなのではないだろうか。
(近代建築 1974年6月)


 建築士渇くなんぢに父母(ふも)未生(みしやう)以前のあさぎいろの消しゴム   (塚本邦雄:感幻樂)

国菌

きのうのつづきです。

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出席したいけど天皇皇后が行くせいで僕は行けない、といわんばかりのニュース報道に不快感が募ります。
本人よりも、こんな非礼な報道をするマスコミの態度が許しがたいと思うのです。


「消費者」たる我々は、消費するためだけに身を粉にして働き、死んでいく人生ではないのか。日本人は生まれ落ちた瞬間から消費者の顔つきをしているといわれるのは、この謂なのであろうか。』と言う、農や食についての著書も多い藤原辰史の講演レポートから。(慶應MCC夕学リフレクション 藤原辰史「生産から分解へ~土壇場の地球思想を求めて~」

 分解の思想は、幼稚園の創始者として知られるドイツの教育者フリードリヒ・フレーベル(1782--1852)が考案した積み木によく反映されているという。バラバラな状態から積み上げるこの玩具の「崩してからつくる」部分に、藤原氏はより分解の運動の本質を見る。壊す方が先なのだ。

 ともかくも同じ分解者仲間同士、もう少し自然界と同じフィールドで交信しあうべきだしできるはず、と鼓舞する藤原氏。いっそ国民総生産ではなく、「国民総分解」を国力の指標にできればいいと画期的なアイデアも繰り出す。
今はまだマイナーな国菌「アスペルギルス・オリゼー」がスターに躍り出る日も夢ではない。(茅野塩子)


(※ 「麹菌」(学名:アスペルギルス オリゼー)は、醤油、味噌、日本酒、みりん、酢などの製造に必要な菌として、国花、国鳥と同様に国を代表する「日本の国菌」とされている。そうです)


 母がつくる眞冬の麹茫茫と花さき娶りそこなふ長子   (塚本邦雄:日本人靈歌)

みづからに問へ

ここは吉野だったようです。

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NHK放送文化研究所の「正解」というコラムから抜粋します。

 いまさら? と笑われそうだが,RADWIMPSの『正解(18FES ver.)』という曲に,ただならぬ衝撃を受けた。
僕たちが知りたかったのはいつも正解など大人も知らない [野田洋次郎作詞『正解(18FES ver.)』より]
 そのとおりだ。社会人になっても正解を探すような仕事のしかたをしてきた気がする。ラジオ番組の制作をしていたときは「リスナーが正解をもっている。だから投稿メールをしっかり読み込む」などとカッコつけていたが,実際には「ウケる企画は何か?」と正解を探して苦闘していた。
 個人の人生に正解はないかもしれない。でも,人類全体で考えるとどうだろう。「平和」が正解のひとつであってほしいと強く願う。

(メディア研究部高橋徹)

『正解(18FES ver.)』という曲をネットで聴きましたが、筆者のお嬢ちゃんの好きそうな、でもpithecantroupusは好きでもない音でした。しかし、ここは素直な心で正解のない問を問い続けることにしようっと。(笑)

 遠き日は水涸るる邊の水葵われよりもきみみづからに問へ   (塚本邦雄:摩多羅調)

魔界入り難し

恥ずかしながら、きのうのクレオールが初耳だったのであれこれ検索しました。
小泉八雲もクレオールの本を書いていたなんてビックリぽん。
きのうの記事をマユツバで読んだ自分が恥ずかしいです。

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出版社有鄰堂の情報紙「有隣」最新号に川端康成のことが書いてありました。
筆者は伊豆の踊子や千羽鶴を素材に次のように書いていました。

 「仏界入り易く、魔界入り難し」という一休の言葉を、後期の川端はよく引いている。菊治と太田夫人が魔界の住人だとすれば、魔界は仏界に通じていると思わざるを得ない。「『魔界』なくして『仏界』はありません」(『美しい日本の私』)とうそぶく川端は、世間のモラルよりも一段高いところに自身の道徳を置いていたのだと思う。

またビックリぽんです。川端は性愛において変態の淵を歩いていたように感じる作家です。
谷崎が聞いたら、呵々大笑してしまうのではないでしょうか。


 死後も高熱のわが息薔薇色に身體髪膚魔に享(う)けしかば   (塚本邦雄:閑雅空間)

ヴァカボン

足踏みしています。いっちにいっちに。

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”ヴァカボン”と聞いて「天才バカボン」だとおもったpithecantroupus。クレオール語のヴァカボンと言われても「本当かなぁ」と思っています。
図書新聞の連載「ふらんす時評」(評者:福島亮)の『ヴァカボンの知恵――カリブ海の映画と文学の現在』から。

 クレオール文学の旗印のもと、言語学者ラルフ・ルートヴィッヒによって新たに編まれたアンソロジーは、「彷徨と笑い」をテーマにした総勢十五名の作家のテクストやエッセイが収められている。特徴づけるのは、クレオール語へのこだわりである。
 彷徨と笑い。そこには権力者の語彙を無効化する力が秘められている。編者のルートヴィッヒが言うように、「彷徨」を意味するクレオール語「ヴァカボン」には「ろくでなし」という意味がある。ここに、「アナーキー」な思想に接続しうる何かがあるのではないだろうか。


 こちらへいらつしやいシャイロックろく陸(ろく)でなし梨の花チルチル・ミチル道   (塚本邦雄:汨羅變)

モノクロの

半田なおなお。
だけど半田でなくても撮れる写真です。
季節感もないし。

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 枕許にひらと落ちたるモノクロのさむざむしボッティチェッリの「春」   (塚本邦雄:不變律)


とりあえず色気不足だけを補って一枚、狂いつつある脳が撮った写真で追加を。
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女王陛下

半田なお。

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金や法律の話ばかりで、なぜ根本的な議論がされないのか。つまり、
彼が国葬に値するような人間だったか。

と思っていたら英国女王逝去のニュース。
だれが費用や手続きを問題にするでしょうか。

国葬に来る海外賓客をみれば元首相が外国でどう評価されているか分かりそうな気がします。
元大統領でなく現職の副大統領だなんて。

 女王陛下万歳二唱はるかなる火中のピアノ燠(おき)となるころ   (塚本邦雄:獻身)

はくろ

半田の自転車。

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離島経済新聞社『季刊ritokei』15号(2015年11月発行号)掲載記事「【島Interview|訊く】」のリリー・フランキーのインタビューから。

(映画『シェル・コレクター』という)この話自体がすごく浮世離れしたテーマ(盲目の貝類学者と、患っている目が貝の毒で治癒する女性の話)で、ここに出てくる登場人物が悩んでいるのは結局、世俗の街の話なんですよね。静かにしようと思っても、人間の関係が煩わしい。無人島に住んでいても、人間と向き合わなければいけない。それを疎ましく思って死んでも、向こうの世界でもありますよ。死後の世界に行ってみたって、会いたくない人に会うんでしょうね。

(著書『ボロボロになった人たちへ(幻冬社)』に収録されるている短編小説『おさびし島』の主人公)カメラマンが、島の人に聞くんです。「普段なにしてるんですか?」「いや、なんにもしてねえ。ちょこっと働いて、酒飲んで、おめこしてるだけ」と。最初、カメラマンはその言葉を軽蔑するんだけど、だんだんと自分もそうなっていくんです。

でも、無くても大丈夫なものを、なんかやっぱ抱えていきたいっていう。経済的な消費社会だけじゃなくて、心もいろんなものに使っていかないと間が持たないんでしょう。それが人間の業と美しさです。


人づきあいが面倒になるのは老化現象だと思ってせっせとしがらみにしがみついている者からすると贅沢な話に聞こえますが。


多分、白露は”しらつゆ”で、季語は”さつを”の方なので、季節は冬の歌でしょうが。
 白露と獵夫(さつを)の胸毛吟(うた)ひたる與謝野蕪村、何含羞(はにか)みゐるか   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

ホームズ

クルクルパーでは信用を落とすので、まじめな半田も。

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ホームレスが売る雑誌「ビッグイシュー」の記事『「陰謀論」にとらわれる人の傾向と対策』から自戒のために引用します。

陰謀論」は、この世で起きるさまざまな事象に素早く簡単な説明を与えてくれる。
これ(陰謀論が拡散しやすい事)は、私たちが“表現の自由”を保証する多元的民主主義に生きていることの代償

陰謀論のインセンティブは“儲かるから”
Googleで怪しげなトピックについて検索すると、最初にヒットするのは、科学的な立場のものではなく、陰謀論に同調的なサイト
陰謀論やフェイクニュースの流布には必ず経済的動機がある

陰謀論者の特徴として、出来事にはまったくの偶然で起きるものがあるということを理解できない、がある。


ホームレスが見つからずホームで、
 罌粟に疾風(しつぷう)しかも死ぬまで獨身(ひとりみ)のシャーロック・ホームズを朋とし   (塚本邦雄:星餐圖)

終わりせまり

きのうまでの瀬戸につづき半田へ行ったと写真が言ってます。
ストレス解消に元ビール工場でクルクルパーの頭が撮った写真。

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ビール工場は「かぶとビール」という商標だったそうです。
 兜には蘭奢(らんじや)かをれるものがたり讀みをはりせまり來(きた)る夕寒(ゆふさむ)   (塚本邦雄:花にめざめよ)

たどりてその底に

瀬戸なお。

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文春オンラインに『実は若者と老人の記憶力には差はない…「年をとるほど忘れやすくなる」という誤解が広がる本当の理由』という記事があり、『※本稿は、和田秀樹『70歳の正解』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。』という断り書きがありました。
そこに記憶力が落ちる理由が3つ書いてありました。

 ひとつめは、自分で「記憶力が落ちた」と決めつけ、記憶する意欲をなくした場合です。前述したように、若い頃は誰しもそれなりに記憶しようと努力するものです。ところが、中高年になると、大半の人はそうした努力をしなくなってしまう。それなのに、「昔は簡単に記憶できた」ような“美しい錯覚”に陥り、「記憶力が落ちた」と慨嘆する。

 記憶力が落ちるふたつめの原因は、強すぎるストレスです。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉を、耳にしたことがあると思います。

 記憶力が落ちる理由の最後のひとつは、生物学的な理由です。中高年以降、男性ホルモンが減少していきますが、それが記憶力の低下につながることは意外に知られていません。男性ホルモンの減少は、記憶に影響する神経伝達物質のアセチルコリンを減らすことにつながっているとみられているのです。

pithecantroupusの場合、若いころから記憶力が悪いから一つ目は当たりません。三つめも助平を卒業していないから該当せず。ということはストレスかぁ。でも記憶力が衰えることより好奇心や思考力判断力の低下が心配なのだけど。


 記憶いくさの日までたどりてその底に桑の實からびたる乳母車   (塚本邦雄:驟雨修辭學)

すみやかに来る

また季節外れで気分転換です。一つのことに長続きしない性格ですので。
狂った頭と正常な頭を一枚づつ。

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 沓へりて九月の石疊熱(あつ)し 罰は死よりもすみやかに來る   (塚本邦雄:水銀傳説)


心残りがあって、あと一枚を。
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忘却の歓喜

きのうのつづき。ここは愛知県瀬戸。

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白水社WEBマガジン「ふらんす」連載の四方田犬彦「老年にはなったけど…」第2回『忘却について』から。
かれは、認知症になって、ビートルズの記憶が消えてしまったらと想像します。記憶が消えた後で、偶然に「イエスタデイ」や「ヘイ、ジュード」を耳にしたときの感動を想像します。

いつでもそれ(ビートルズの曲)を口遊むことができる。
退屈なとき、嫌なことに出逢って気持ちが鬱屈しているとき、それが自分の心に安堵をもたらしてくれることを、わたしは体験的に知っている。

とはいえそれは、初めてラジオの深夜放送でビートルズの「新曲」を耳にしたときの驚異とはまったく別のものである。

音楽というものは、厳密にいうならば、一回かぎりの体験だった。わたしは「ヘイ、ジュード」を聴きながら、いったい自分はどこへ連れ去られていくのだろうという、途方もない気持ちを抱いていた。もしこの偉大なという曲の記憶が都合よくなくなってしまったなら、わたしはその新鮮な感動をふたたび自分のものにできるかもしれないのだ。



 仏蘭西料理と心中せしか古希過ぎて日蔭に蠶豆(そらまめ)を剥けりシェフ   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

既死感

きょうは「マド」という好物で。
ゾじゃありません。

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漱石「硝子戸の中」から。

レンズを私の方へ向けた時もまた前と同じような鄭寧な調子で、「御約束ではございますが、少しどうか……」と同じ言葉を繰り返した。私は前よりもなお笑う気になれなかった。
 それから四日ばかり経つと、彼は郵便で私の写真を届けてくれた。しかしその写真はまさしく彼の注文通りに笑っていたのである。その時私は中(あて)が外(はず)れた人のように、しばらく自分の顔を見つめていた。

 私は生れてから今日までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。その偽りが今この写真師のために復讐を受けたのかも知れない。
 彼は気味のよくない苦笑を洩らしている私の写真を送ってくれたけれども、その写真を載せると云った雑誌はついに届けなかった。
青空文庫「硝子戸の中(二)」より)

漱石が貰えなかった雑誌は国立国会図書館月報713号に紹介されていましたので、当の写真のコピーを。
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 玻璃戸のかなたなる逢引を諷詠すすなはち旣視感か旣死感か   (塚本邦雄:不變律)

かすみ眼

きのうの花は10ウン年前の6月撮影でした。もう季節なんかどうでもいいというところまでボケた訳ではない。と思いたい。
今日の一枚目もボケボケですが、ペンタックスのソフトレンズを使ったせいで、目がしょぼくれていないことを誓います。

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 日本愛しつつ孤立せるわが朋(とも)よ雷(らい)すぎて眼のごとく濡るる石   (塚本邦雄:日本人靈歌)

元首相の死を見るにつけ、歴史になった過去が今と未来をつくると感じる事が多々あります。pithecantroupusの学生時代、全共闘の時代が哲学者や思想家によってきちんと総括されていないとか(村上春樹は問題意識を持っていると感じます)、オウムという絶好の標本を解剖していないとか、日韓の関係とか。

統一教会をさかのぼれば韓国利権、岸信介から朝鮮戦争、植民地までの歴史をたどるべきだと思うのですが、だれも分かり易く話してくれません。
GQジャパンの『内田樹が観た、ドラマ『Pachinko パチンコ』──日本を舞台にしながら、日本で黙殺される理由とは?』から引用します。

 過去について知らない人間、知ろうとしない人間には未来を創り上げることはできない。当たり前のことである。

 今も日本では、自国史については「きれいごと」だけを並べて、日本人はこれまで隠すようなことは何ひとつ犯したことがないという幼稚な「歴史修正主義」がはびこっている。そういうシンプルな物語を服用していると「気分がいい」という人がいることはしかたがない。けれども、日本人がそんな人間ばかりになった時に、国際社会は日本人に「未来を託す」ことをしなくなるだろう。