平和と鎮魂

残りものと茅の輪のチ。

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s.nokton 29mm 0.8

きのうの引用は石原の話ではなく、いま戦場と化しているウクライナから連想した大鵬を引用するつもりでした。pithecantroupusがウクライナから思い出すのはソフィア・ローレンの偉大なバストと大鵬です。(汗)
ウクライナのハリコフが大鵬の父の出身地だそうです。ことし3月の「ベテラン記者コラム」記事に次のようにありました。

納谷さんがいま、戦火にあるハリコフの街をみたら、どんな思いがするだろう。
昭和40年7月、大鵬は日本相撲協会が行った初めての海外公演に参加。旧ソ連のモスクワとハバロフスクを訪れた。このとき、大鵬はひそかにロシアの土を持ち帰っている。

平成12年6月、納谷さんは元横綱だけが行う赤い綱を締めた「還暦土俵入り」を披露した。36歳のときに脳梗塞で倒れ、一部の所作だけだったものの、しっかりやり切った。その直後、近しい関係者に「平和と鎮魂の思いをありったけ込めた」と語ったという。極限の戦争体験がいわせた言葉に違いない。


極限の戦争体験については、wikiに、「太平洋戦争末期、ソ連軍が(大鵬母子が住んでいた)南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。小笠原丸はその後、留萌沖でソ連潜水艦の攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた。」とありました。

 向日葵銀行蔀屋(しとみや)支店駐車場ルノー横轉して血と油   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

了解してほしい

まだ神社。

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m.zuiko 75mm 1.8
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m.zuiko 17mm 1.2

 今生ののぞみといへど六月の霰二月の夜(よる)の向日葵   (塚本邦雄:不變律)


サンスポの「ベテラン記者コラム」に載った石原慎太郎追悼記事から、

(昭和38年秋場所の柏戸と大鵬の取組に石原は、)
 あるスポーツ紙にこの一番について腹蔵のないコラムを寄せ、その見出しは「いい加減にしろ」。当時30歳。芥川賞作家でもある石原さんはこの一番を「八百長相撲」と断じ、大鵬が柏戸に同情して勝ちを譲ったと論を張り、批判は日本相撲協会へも向けられた。
(その後、武蔵川親方の回顧録によれば、石原は武蔵川親方に、)
「(取り組みの)すぐにそのあとに新聞社から電話が掛かってきて、あれは八百長の相撲じゃないですか、という。・・・半信半疑になり、一文を書いてしまった。しかし、もともとよく知らない相撲のことを書いたのだから自信がない。・・・他意あってやったことではないので、どうか了解してほしい」
・・・
 石原さんの騒動の直後、柏戸と会った大鵬は「八百長相撲といわれて辛かったでしょうね」と声を掛けると、言葉にならず、うなずきながら号泣したという。それまではとくに親しい関係ではなかったものの、大鵬は柏戸の裏表のない人柄にひかれ、この一件を機に2人の距離は一気に近くなったそうだ。


石原に八百長と言わせた記者も酷いが、謝罪を「了解」という言葉でごまかす石原もたいがいだと感じます。後年、政治家になっていく資質十分だと思いました。

茅輪くぐる影

きのうの茅の輪は加佐登(かさど)神社というところで、きょうのは伊奈冨(いのう)神社というところで撮りました。

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laowa 25mm 0.95
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m.zuiko 75mm 1.8

 夏ゆくと家の門(と)昏みちちははの在らざる影や茅(ち)の輪(わ)くぐれる   (塚本邦雄:されど遊星)


戦争を日常で経験していない人ばかりになっていくことがおそろしく感じることがあります。
軍国青年だったと自認する吉本隆明は、戦時中2.26の将校と心情を共有したと言ってますが、あるインタビューで、

 鶴見(俊輔)さんが進歩的知識人なら、進歩的知識人も悪くねえやと思います(笑)。・・・・学問があったり知識があったりということと違う何かを持っている人ですね。・・・
 ・・・僕は自分が軍国青年であったことを恥ずかしいとも思わなければ、反省もしない。反省なんかしたら、アメリカの無茶苦茶な原爆や空襲や戦犯裁判を認めることになってしまい、冗談じゃないと思っていた。戦争は国家の正義と正義のぶつかりあいで、共に幾分かの真理を持っています。だからどちらが正義かではなく、戦争自体が悪だと考えるべきですね。その両義性を鶴見さんはよく理解しているのではないでしょうか。(KAWADE 道の手帖「鶴見俊輔」)


pithecantroupusのおそれは、ウクライナに侵攻した国を悪者一辺倒で言い立てる大政翼賛と大本営発表をつづけるマスコミです。

夏越

ご近所の神社の茅の輪を見てきました。30日の夏越の祭にむけてまだ作成中というのもありましたが旬の景色なので。

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laowa 25mm 0.95
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laowa 25mm 0.95

 夏越(なごし)さらば薔薇科の花旱(はなひでり)われに一人(いちにん)わかき愛のとどめ刺す   (塚本邦雄:星餐圖)

きょうもいいとこのおじょうちゃん。
いっぺん在日や部落の出身者を出してみろ。
三國連太郎のような芸能人もいると思うけど。

冗談

大正村ノスタルジアなお。

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きのう書いた小田嶋隆を忘れないうちに引用しときます。最近すぐ忘れてしまうから。

小田嶋隆が2015年1月「日経ビジネス」に書いたコラムで、『オダジマは、6年半も前から「笑い」を過剰に高く評価する風潮に敵意を抱いていた』と言ったうえで、仏の週刊新聞シャルリー・エブドがテロリストに襲撃された事件に関連して、

 あえてユーモアを主題に持ってきたのは、14日の朝日新聞に載った《「犯人はユーモア失っていた」 仏紙風刺漫画家が会見》という記事に、考えさせられたからだ。
 会見の中で、風刺漫画家のラウド・ルジエさん(43)は、ユーモアについて、《最後に、報道陣から「この絵を描いたことで心配はないか」と質問が出ると、「ユーモアの知性を信じている。犯人はユーモアを失っていただけだ」と言い切った。》

 でも、だとしても、ユーモアについての理解の有無とテロリズムは別の次元の話だ。
 私自身の話をすれば、検索してたどりついたシャルリ・エブドの風刺マンガからは、ほとんどまったくユーモアのエッセンスを感じ取ることができなかった。
 私は、単に不快だった。
 つまり、ユーモアの理解度からすれば、私は、テロの犯人とそんなに違わなかったわけだ。

 唯一の問題は、犯人が暴力に訴えたことだ。
 
 ルジエ氏は、暴力とユーモアを正反対の概念だと思ってそう言ったのだろうが、暴力とユーモアは、コインの裏表みたいに、お互いを補完しあっている。同じ現象の別の側面と言っても良い。
 実際、ユーモアの名において発動されているいじめは山ほど存在しているし、セクハラやパワハラも、多くの場合、ユーモアの仮面をかぶっている。
 ユーモアは、いやがらせにも、あてこすりにも、皮肉にも、揶揄にも使われる。
 どれもこれも言葉を介した暴力の一変形であり、もっと悪い場合、集団から個人に向けたリンチに適用される。


ちょっと前のアカデミー賞の事件や最近の表彰状のニュースを思い出しながら引用しました。pithecantroupusは今もウィル・スミスは正義を行ったと思っています。

西欧七月暦と題された中の一つで、
 やすみやすみ冗談を言ふ短夜(みじかよ)のまどゐ クレリチの「乾けるヴェニス」   (塚本邦雄:不變律)

大正

岩村へ行った日は大正村というところへも行ったようです。

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 大正、藍の香していつくし若者が肩までたくしあげたる袖   (塚本邦雄:花劇)

コラムニスト小田嶋隆が亡くなったそうです。といっても彼の名前は今まで知りませんでした。死んで初めて彼のブログを読みました。
サッカー好きのところはついていけないけど、最近のスポーツ中継で日本人アスリートばかり重視することを批判した文はまったく同感です。それにジョークとかユーモアの攻撃性を指摘した文もよかったぁ。いつか賢こぶって引用しようッと。(汗)

むかし岩村で

岐阜県岩村へ行った10ウン年まえは今日の家事労働に追われる日々なんて想像もしなかったなぁ。あれは6月だったなぁ。

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 一國一城のあるじが露草の花もて滿たす夏至の雪隠   (塚本邦雄:汨羅變)

へそを落とした話

こけしのつづきを。

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m.zuiko 30mm 3.5 macro
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m.zuiko 30mm 3.5 macro

あるところにあった”エッセイ”が面白かったので引用します。

 へそを落としました、という知人がいる。Kさんだ。年は三十半ばくらい。誰かが「端正だ」と褒めていた、おひな様みたいな優男である。
 その顔が、青ざめている。・・・
 「落としたって、どこでですか」
 「自宅の、風呂場」
 シャワーを浴びていて、ふと足元を見るとへそが転がっていく。ああどうしよう、まさか、と思っている間に、大事なへそはシャワーの湯ごと、排水口へ吸い込まれてしまったらしい。
 じゃあ、今、へそ、無いんですね。半分笑いながら訊くと、うつむき加減の小さな声で「怖くて、それから、見られなくて」。
 これを噓と言うのは簡単だ。しかし、わたしはわりに、情に篤いたちである。噓でしょう、見まちがいでしょう、と言う代わりに、へそがどうしたって言うんですか。へそなんか無くてもなんとかなりますよ、と励ました。・・・
「群像」2015年4月号 早助よう子「善き人々の受難」

読みながら緑色のカエルを思い出したのは、昭和のカゼ薬CMがしっかり記憶されているせいに違いありません。

沖縄の日なので、塚本邦雄「新歌枕東西百景」中、沖縄縣那覇市首里桃原町という地名からつくられた歌を。
 ぬばたまの夢の海溝くぐり來て首里の泉に浮く桃の花   (塚本邦雄:新歌枕東西百景)

蒐集癖

こけし集めに一時凝っていた父はことし一周半した年男。

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m.zuiko 30mm 3.5 macro
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m.zuiko 30mm 3.5 macro
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m.zuiko 30mm 3.5 macro


 栃の花雨夜ににほひ大伯父の玩具蒐集癖死ぬるまで   (塚本邦雄:豹變)

過去より

せめても写真だけでも明るくしたいと思ったら10ウン年前撮ったものになってしまいました。

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夏至だそうです。
 夏至の海くらくらとして過去よりの金靑(こんじやう)ぞ 溺死したる Shelley に   (塚本邦雄:水銀傳説)

あのころは明るくてノー天気だったなぁ。夢でいいからもどりたいなぁ。

できないのなら

アジサイ一枚だけ。先日撮ったばかりですが、もう何年も進歩してない証明。

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s.nokton 29mm 0.8

 六月は萬象うるむ家妻がまれまれにはく足袋のしろたへ   (塚本邦雄:詩歌變)


反省の意味を込めて引用しときます。毎度の内田樹のサイトから、

 レイモンド・チャンドラーが造形した名探偵フィリップ・マーロウの有名な台詞をお送りしたい。
「非情な人間でなければ私は今日まで生きてこれなかっただろう。けれども、礼儀正しい人間であることができないのなら、私は生きるに値しない。」(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.)
「礼儀正しくあることができないなら、人間として生きるに値しない」というのはずいぶん厳しい言葉である。けれども、今の日本人が真剣に傾聴すべきものだと私は思う。( 「無作法と批評性」)


元の文は無作法への辛辣な批判で、自己正当化や尊大だけでなく、知ったかぶりや上から目線への批判として忘れないようにしたいのです。

頭蓋骨は白

あたまの中はグシャグシャでボケボケであることの証明写真。

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s.nokton 29mm 0.8
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s.nokton 29mm 0.8

 アポリネールの彈痕のある頭蓋骨白罌栗一茎挿しておきたい   (塚本邦雄:汨羅變)

風鈴鳴らず

きのう同様ご近所の神社で撮りました。
引きこもっている間に、いつの間にか風鈴の季節になっていることに気付きました。

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s.nokton 29mm 0.8
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dg summilux 12mm 1.4

季節が合っていませんが、
 こころざしたとふればわが身中のしろがねの冬の風鈴鳴らず   (塚本邦雄:波瀾)

ことばみだるる

撮りたてと言うだけです。ご近所のただの神社です。狛犬の後ろ姿がそれと分からない失敗も正直に。

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s.nokton 29mm 0.8

昨日一昨日と枝葉末節を引用しましたが、元は話し言葉と書き言葉が気になったからです。
そのきっかけは、
春秋社のサイト(「はるとあき」)に、「わたくし、つまりNobody賞」を受賞した伊藤亜紗が書いていた記事です。(『言葉と体』)
彼女は子供のころから吃音とともに生きてきた人だそうです。その記事から少し引用します。

 言葉には「話し言葉」と「書き言葉」があります。賞をいただいてあらためて考え、気づいたのですが、私は文字で文章を書くときにも、それが限りなく話し言葉的であるようにすることに、強いこだわりを持っています。「話すように書いて」いるのです。・・・
 その理由は、「書き言葉」だと、転がる予感、どもる予感がしないからなのだと思います。・・・手にとってじっくり吟味したり、丁寧に磨き上げたりできるようなものは、私にとっては言葉ではないのです。


話し言葉に影響されて書き言葉が崩れていくと嘆くきのうのサイトと真逆なのです。面白いなぁ。

 ことばみだれみだるる今日のかたみとて茄子一籃(ひとかご)のおそろしき藍   (塚本邦雄:汨羅變)

もてあそぶ言葉

たまにはモノクロ。

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きのうの引用は書き言葉と話し言葉の話として読んだものでしたが、pithecantroupusが世間知らずだと改めて言われて、反省のために枝葉末節のほうを引用しました。きょうも、枝葉末節で。

 今野教授(清泉女子大学日本語学)は、日本語が「うつりゆく」例として「……、4度目の緊急事態宣言が始まった」(朝日新聞21年7月13日朝刊一面)の例を挙げ、少なくとも「四度目の緊急事態宣言(下の日常生活)が始まった」程度に括弧内の文字を補足する必要がある、と苦言を呈している。
 書いた記者も読者の側もお互いに慣れ過ぎた結果、「話し言葉」風の省略が行われたのだろう。「うつりゆく」はやがて「崩れゆく」にたどり着くのかもしれない。


 もてあそぶ言葉や露のゆふぐれに殘んの蓼のみだるくれなゐ   (塚本邦雄:されど遊星)

へぇ~

大原なお。

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左右社webの連載”ネッセイ”、重金敦之「マカロニの穴から豆腐の角を見る」から引用します。

 SNSなどで文末に使う「お疲れ様でした」の意味で、最初の二文字をとって「おつ」とだけ記す。そのうち「乙(おつ)」一文字に簡略化された。「笑い」の意味で「wa(わ)」から「www」となり、草のように見えるところから「草生える」→「笑える」となり、「草」だけになった。

よくネットで見る「www」や「草」、「乙(おつ)」がこんな意味でこんな由来だったと初めて知りました。
「乙(おつ)」なんて、”ちょっといいよ”とか”いかしてるよ”という意味だと思いこんでいました。阿保なpithecantroupus!

それに、引用してませんが、ここの文を読んで初めて「打ち言葉」という単語も知りました。
へぇ~、てなもんです。

 革命とほくなりつつ今宵わが家には蕗靑く煮え父の哄笑  (塚本邦雄:日本人靈歌)

いかに生くべからざるか

やはり大原でした。写真がそう言ってます。10年以上前。

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先日、金井美恵子が石原慎太郎のことを批判的に書いていた記事を引用しましたが、そこで「石原のえらそうなマウンティング的振舞い」と修飾されていたのは、ベルリンにおける石原と大江健三郎の「テレビ的会話」を指したものでした。おなじ場面を石原自身が語っていたので、

 この本(「わが人生の時の時」)は不思議なきっかけでね、大江健三郎のおかげなんですよ。テレビ局の依頼で反核運動が盛んだった西ドイツ(当時)に取材に行ったら、同じ目的で来ていた大江と会った。ベルリンの壁の前で僕は覚えたてのスキューバダイビングの話を彼にしたんです。・・・「海の底は全然違う宇宙で、いろんな発見があるんだ」と。大江はやけに感心して「石原さん、そういう話、絶対書きとめておいた方がいいですよ」と言う。

『わが人生の時の時』は家のどこかに積読されているかもしれません。(読んでいないのは確実です。)
読んでみたいけれど探すのも面倒だなぁ。

 人生いかに生くべからざるかを憶ひ朱欒(ザボン)を眺めゐたる二時間   (塚本邦雄:黄金律)

新しく聞いた話なぞ

むかし6月に行ったのは大原だったようです。

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小学館のサイトに時事芸人という肩書のプチ鹿島のインタビューが載っていて、

 学生時代、授業で『社説を読め』『一面コラムを読め』と言われても、よくわかんなかったんです。で、思ったんですよ。『各紙を思い切って擬人化してしまえば良いじゃないか』
  朝日新聞は「高い背広を着たプライド高めのおじさん」。
  産経新聞は「いつも小言を言っている和服のおじさん」。
  毎日新聞は「書生肌のおじさん」。
  東京新聞は「問題意識が高い下町のおじさん」。
  読売新聞は「ずばり『ナベツネ』」──。   (『芸人式新聞の読み方』幻冬舎刊より抜粋)


なるほど、おっしゃる通りのイメージと思いました。

 妻の愛あまねき朝(あした)食卓の新聞に水死者の生ける貌   (塚本邦雄:驟雨修辭學)

六十四

庭のつづきです。撮れたてというだけの写真ですが。

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m.zuiko 60mm 2.8 macro
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m.zuiko 60mm 2.8 macro

上田義彦のインタヴューは以前も引用しましたが別サイトから、

 8×10で30年くらいやってきたものですから、そういう見方や構え方になってきたと思います。実は、僕は35mmでも立ったところでそのまま撮るのですが、そういう身体にもうなってしまっているのです。重要なことは、身体と写真はすごく関係しているということです。僕の場合は、やはり8×10という非常に不自由なカメラのおかげで、身体を先に先にという感覚になっていったと思います。身体はドキドキしたり、動けなくなったりするわけですから、そこにカメラさえあれば、その感覚は写るだろうし、そのまま写ってほしいと思います。カメラで撮ってるというよりは、目とどこか、ある人に言わせれば魂の場所で撮るといいますか、そういうことだと思います。(赤い林檎との親密な残像を求めて

かれの言う「そういう場所・撮り方」とは、『自分が立ったそこが「写真の場所」なのです。カメラを担いで立つと、その前にスッとカメラが来て、そこが写真の場所になる。要するに、身体が自然に止まってしまったところが、ということです。カメラを構えてからああだ、こうだとは僕は一切やりません。自分が見ている場所があって、それを写せばいい。』ということだそうです。

エイト・バイ・テンはずっと憧れのカメラでした。20代の頃は”f64”に憧れていたし。

64で、
 昭和六十四年一月先輩の柩ひきずるラガーの歡呼   (塚本邦雄:黄金律)

うたかたの

雑草伸び放題の庭で。

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m.zuiko 60mm 2.8 macro

webちくま連載金井美恵子「重箱の隅から」の最新記事に石原慎太郎が前回に引き続き言及されていたのであの時代への郷愁(pithecantroupusはその時代に遅れてしまいましたが)をこめて引用します。
 石原と大江健三郎が出たTVインタビューでの石原のえらそうなマウンティング的振舞いにふれた後、石原が知事時代にした「オス鮭エリート主義」とでも呼ぶべきいかにも低次元で無教養な女性蔑視発言を紹介しつつ、

同世代の作家としてデビューした大江健三郎が、鮭の産卵についてどう書いていたかを思い出さずにはいられない。
『政治少年死す(「セブンティーン」第二部)』(61年2月「文學界」)の主人公の少年は、・・・「待ちのぞんでいた天からの声《さあ、おまえはもう充分だ、行け!》を聴く、そしてその瞬間、おれたちはすべてを放棄して、排卵後の鮭のように身軽に、まっしぐらに行く!」。
・・・石原慎太郎(低次元の発言)は生物学的には間違っているわけではなく、いろいろな意味で言語感覚がなかったのである。
 しかし、大江健三郎のあふれかえって増殖するみずみずしく柔らかな傷つきやすい言葉の芽や卵や水の中での鮭の産卵後の身軽でまっしぐらの泳ぎとは! この生物学的には間違っている比喩のかぎりない美しさに思わず笑いつつ、私はこの小説を愛している、とつぶやかずにはいられない。


 鮭は蒼く水にその身をゆだねつつさかのぼる泡沫(うたかた)の瀨の闇   (塚本邦雄:相聞歌)

夢みし

このところは奈良県宇陀で撮った写真つづきですが、回想に溺れているせいか夢見がわるくて、寝る度に疲れます。
そのうえ起きたとたんに夢の中身を忘れてる。(笑)

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 麻刈るはよそなる夏の夕まぐれ醉はざるわれや深き夢みし   (塚本邦雄:されど遊星)

漫画家の石井隆が亡くなったそうです。「天使のはらわた」を本屋で立ち読みしたとき、横や後に誰かいないか、自分のズボンの前が目立たないか、気になってしかたなかった。名美という名前は、記憶力があやしくなった今でも覚えています。

あるかなきかの

きのうのつづき。

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写真家の安田菜津紀が書いている連載にありました。、

 僭越ながら時々、写真の審査や講評をさせて頂く機会がある。毎度痛感するのは、批判的な言葉を探す方が楽であり、褒める言葉を見出す方が困難だ、ということだ。写真だけではなく、様々な混沌と対峙するときもそうだ。誰かの至らないところを責め立てるより、その社会が抱える問題を和らげていくために行動する方がよほど難しい。
 この仕事をしていると時々、毒気のある言葉に頼りたくなることがある。より注意を引き、人の感情を波立たせ、物事の白黒がはっきりすればどこか安心したような気持になる。・・・
 優しい言葉と過激な言葉、本当の意味で困難に立ち向かっているのはどちらだろう。そんな模索は続いていく。(安田菜津紀の写真日記 )


写真も言葉も同じだなぁ。

 されば詩歌は六腑の毒と言ひ遺す夏桑にあるかなきかの夜風   (塚本邦雄:歌人)

チビリそう

大宇陀、と思います。

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トイレの夢を見たので、
 後架に今宵亡き父が來て歸去來の辭を歔欷ののち謠ひいだしつ   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

トイレに行こうとビルに入ったけどトイレが工事中でオシッコを我慢しながら案内の女性にトイレに連れて行ってもらうのですがチビリそうでヒヤヒヤしつつ「早く早く!」って言っているときに目が覚めました。
あぶなかったぁ。
トイレの夢は二回目で今回も間に合ったけど、この先心配です。本当に心配です。

よみがへるこころ

大宇陀という場所だったと写真が言ってます。本当かなぁ、10年以上前だし。

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新歌枕東西百景から「奈良県宇陀郡榛原町篠樂」の歌。
 涼風(すずかぜ)に鳴るや篠竹よみがへるきみとわがこころの越天樂(ゑてんらく) (塚本邦雄:新歌枕東西百景)

記憶たどりて

残りもの、なお。もう正真正銘ゴミそのものです。

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nokton 25mm 0.95

五木寛之があるところで、『モノを「捨てる」ことを否定はしませんが、自分の意思を捨ててまでする必要はないと思うんです。あなたの中にある「記憶」は「財産」です。呼び起こす手立ては、たくさんあるに越したことないと思うのです。』と、「記憶を呼び覚ます装置」としてのモノの話をしていました。別のサイトで、その話(『捨てない生きかた』五木寛之著)を紹介した記事に、

読み進めるほどに「モノに囲まれているということは、じつは記憶とともに生きているということ」という言葉が沁(し)みる。

と書いてあって、これだけは五木に拍手しました。ええpithecantroupusはご都合主義ですよ。

 記憶いくさの日までたどりてその底に桑の實からびたる乳母車   (塚本邦雄:驟雨修辞學)

記憶のごとく

湖南三山と言うところへ一度だけ行ったのは10年以上前のゴールデンウィークだったそうです。なにせ記憶が怪しいので写真の記録だけです。(汗)
もっともpithecantroupusが好きになれない五木寛之は、「記録より記憶」と言っているようなのですが。

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 徒勞つづけつつすでに雨季、野良犬の死骸記憶のごとくに光る   (塚本邦雄:日本人靈歌)

ふときわれ

ササユリの残りもの一枚です。

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tokina reflex 300mm 6.3

 涅槃交響樂の鐘樂(カリヨン)すれちがふときわれに耳ふれし輓馬に   (塚本邦雄:綠色研究)


最近親鸞を書いた五木寛之と碧海寿広の対談から、五木の発言の一部を引用します。(「私たちはなぜ親鸞に魅了されるのか」

 私は親鸞の「非僧非俗」には、もうちょっと違う側面があるだろうと勝手に想像しているんです。どうしても発想が小説家だから笑われてしまうかもしれないのですが。

 当時の世の中には、僧と俗、そして非人という大きく分けて三つの階級がありました。・・・親鸞の「非僧非俗」というのは、僧と俗の中間ということではなく、そのどちらでもない、つまり自ら非人であると宣言したのではないかという。

 親鸞は自ら「愚禿」と名乗りました。・・・「禿頭」というのは、髷を結わない長髪のこと。いわゆるざんばら髪ですね。それは当時の非人たちの髪型でもあった。

 想像力で物を言うと、「面白い考えですね」と言われて終わっちゃうことが多いのですが(笑)


想像で言っている自覚が無くなってきたら愚老っていうのかなぁ。

届きそびれ

ハナショウブにも敬意を表して。出来損ないですがそこはご容赦を。

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 花菖蒲ことに白きは曇日にとどきそびれし天の消息   (塚本邦雄:天變の書)


新理事長とかニュースで見ましたが横山さんに謝ったのかなぁ。きっと、私は悪くないって言うんだろうなぁ。大学が良くなるわけないと思うなぁ。そういえば例の桜でサントリーが無償提供したニュースはあまり話題にならないなぁ。加計も森友も75日以上経ってるからなぁ。

全部を感じたい

アマノジャクの虫が鎮まりません。(汗)
ハナショウブを撮りにいったはずだったのに。

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井上ひさしが、宮沢賢治について、

賢治の童話では、人間はもちろんですが、自然のなかの全部のものが人間としゃべって、人間と交流し合って、話をし合います。これは賢治がわれわれの時代に残していった最大のメッセージの一つだと思います。

と言った後、賢治は殺人も性愛も書かなかったと、

性は、人間同士の交流には役立ちますが、人間以外の動物や植物、神などとの交流には、あまり役に立ちません。かえって、性にとらわれてしまうと、そうしたものとの対話の感覚が閉ざされてしまうという部分もあると思います。賢治は性にとらわれなかったからこそ、人間以外の世界と通ずることができたのではないかと思うことがあります。(「この人から受け継ぐもの」)

いい歳をしてエロにとらわれているpithecantroupusは、神様はもちろん「人間以外の世界」と通じ合えないのかぁ。

 麥秋の芒(のぎ)の視線のいらいらとレオナルド・ダ・ヴィンチ性交斷面圖   (塚本邦雄:黄金律)

いまさら何が

きのうのハナショウブ撮りの結果報告を。

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nokton 25mm 0.95

2019年12月に武漢の原因不明新型肺炎蔓延とアメリカのインフルエンザ席巻のネット・ニュースを見ていた時には身近にコロナ禍がくるなどと想像もしていなかったように、遠い異国の戦争がどんどん身近へ来るのではいかと感じます。

 戰後百年いまさら何が隅田川濁る千住泪町(なみだちやう)驛   (塚本邦雄:約翰傅偽書)
そういえば早乙女勝元はお笑いタレントに負けたままだなぁ。