三月尽

サクラにすぐ飽きてしまう三日坊主。

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nokton 25mm

 こころ冱ゆることかぎりなき頽齢の三月盡(やよひじん) 處女一匹買はむ   (塚本邦雄:詩歌變)

さくらばな一抹の

どこにピントがあるのか穿鑿しないでください。(笑)

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7artisans 50mm
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7artisans 50mm

 さくらばな一抹の銀ふふみつつこの女童(めわらべ)のひらがなことば   (塚本邦雄:波瀾)

わからない

お昼ご飯ついでにご近所のサクラを撮りました。

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7artisans 50mm

 花曇り水銀のいろたれにしろ死は死ののちにしかわからない   (塚本邦雄:不變律)

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7artisans 50mm


友愛数

むかし京都をあきらめてむかし日野で。滋賀県日野市で撮ったと思うのですが。

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劣化しつつある脳みそに役立ちそうですが苦手意識がまだ邪魔をします。

 「そもそもなんで点Pって動くの?」なんてことばかり考えていたし、リンゴもミカンも何個だろうが食べたい人が食べればいいよ!と思っていた。そんな私でも、大人になってからの勉強は楽しい。・・・
 https://twitter.com/asunokibou/status/1495163787854303232?s=20&t=amwirSOxYt8vXuWLDj5vmg
Twitterを見ていて、こういうのが目に入るともうダメ。気になってしまう。
「数学のお兄さん」として知られる横山明日希さんの新著、『数式図鑑』に手を伸ばしたくなった。
中野亜希「ピタゴラス、ニュートンからオイラーまで。数式の美しさ、すごさ、不思議さを解説。」

ときいてpithecantroupusも手を出そうかと迷いましたが、オイラーの等式がでてきて頭の中に?がぞろぞろ並んだので、しばらく「棚上げ」します。ところで、ウィル・スミスはえらいなあ。司会者は謝罪したのかなぁ。

 幾何學の截口灼くる いま死なば初夏空閒のしづくたるべし   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

ひとひらの花と

京都で失敗を繰り返しているのでサクラで禊を。

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dg summilux 12mm
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nokton 60mm

吉本隆明「戦後詩史論」冒頭が引用されていたので、孫引きして、

 戦後詩は現在詩についても詩人についても正統的な関心を惹きつけるところから遠く隔たってしまった。しかも誰からも等しい距離で隔たったといってよい。感性の土壌や思想の独在によって、詩人たちの個性を択りわけるのは無意味になっている。詩人と詩人とを区別する差異は言葉であり、修辞的なこだわりである。〔中略〕戦後詩の修辞的な現在は傾向とか流派としてあるのではなく、いわば全体の存在としてあるといってよい。強いて傾向を特定しようとすれば〈流派〉的な傾向というよりも〈世代〉的な傾向とでもいえばややその真相にちかい。だがほんとうは大規模だけれど厳密な意味では〈世代〉的ですらない。詩的な修辞がすべての切実さから等距離に遠ざかっているからだ。(吉本隆明『増補 戦後詩史論』大和書房、1983年、172-173頁。強調は原文)

これを引用した後、『詩の根底にはいつでも切実さがあるはずだ。しかし、戦後の日本の詩はそういう切実さからもはや離れてしまった、というのがその時点での吉本の見立てだった。』と解説されていました。(細見和之「1980年代の吉本隆明ー没後10年に寄せて」
ついつい写真に置換えて読んでしまうpithecantroupus。

 ここは詩人の死ぬ巷ゆゑ一ひらの花と焰が遺しおかれき   (塚本邦雄:透明文法)

のまひるま

こりずに今日も京都を数で勝負ということで。

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 京都下京月讀町のまひるまを犬あゆみ女一人したがふ   (塚本邦雄:黄金律)

不安なるけふ

京都で駄作のリベンジをしたいのですが出来ないので写真を小さくして。

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京都のかわりに”今日”で、
 不安なる今日の始まりミキサーの中ずたずたの人參廻る   (塚本邦雄:装飾樂句)

木村伊兵衛賞は自分にとってのリトマス試験紙だと思っています。ことしの受賞作をみるとやっぱりpithecantroupusは老人です。

すべてを変えてしまう突然の

きのう頭が回っていないといいましたが、きょうは頭がクルクル回っている証拠写真を。クルクル・パーってか。

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m.zuiko 30mm macro
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m.zuiko 30mm macro

積ん読のままになっている一冊ハワード・ノーマン『ノーザン・ライツ』に関して、著者のインタビューの一節が紹介されていました。(みすず書房トピックス「ここでは死者たちも生きている」)

 ところで「あなたの小説では写真と絵画が重要な役割をはたしていますね」とインタビューで問われた作者のハワード・ノーマンはこう答えている。「写真と絵画ですか、たしかに。しかしわたしにはもう一つ書きたいものがあって、それはラジオについてなのです。わたしのほとんどの小説ではラジオが、チェーホフが言ったところの『すべてを変えてしまう突然のニュース』をもたらします。」

 チェーホフは中学時代に買ってもらった本が「積ん読」のままですが、3.11を機に読んでいる黒川創「いつか、この世界で起こっていたこと」にも『チェーホフの学校』という短編がありました。積読から解放しようかなぁ。

 ところでウクライナの大統領が”侵略の津波”という表現をしたことに違和感を持ちます。
いまなお、津波の記憶に苦しんでいる人々を前にして、戦争が悲惨だとはいえ、そうは言わなくてもいいでしょう。
戦争の非人道性は現実を正確に言うだけでいい。日本におもねる装飾語は不要と思います。

塚本邦雄「不變律」中の『遡行的一月暦』という段に『一月二十九日 木曜 太陰暦元旦 アントン・チェーホフ生誕』と詞書がある歌を引用して、
 ぬばたまの晩年やわが歌ひたることの結論は「幻を視ず」   (塚本邦雄:不變律)

極彩のポ

花粉かも。目がかゆくて。気になって頭が回転してません。もともと回らないけど。

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m.zuiko 20mm
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dg elmarit 200mm + tc1.4
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dg summilux 12mm

 みぞるるはわが魂魄か極彩のポルノグラフィもつひに寒し   (塚本邦雄:不變律)


駄法螺の

むかしの京都の写真があまりにひどいので、また河津桜にもどって仕切り直しを図ります。でも2枚だけ。

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nokton 60mm
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dg elmarit 200mm + tc1.4

 以前にPiczoというファッションフォトグラファーを引用した元の文に、『藤代冥砂さんの言葉で 「時間を止めたくて写真を撮るわけではない。むしろその逆だ」 とあります。』というくだりがあったのですが、調子のよい言葉は疑ってしまうpithecantroupus。

 たしかに藤代冥砂の写真集にある言葉のようですが、彼は写真家というよりも小説家だと感じました。
 藤代のこんな話はとても面白い。

 念のために言っておくが、貴様だって猫である。・・・これはけっして戯言ではない。

 妄想とは、ちょっと頭のおかしな輩たちの脳内活動ではない。一般的な人間の思考全般が、すでの妄想なのである。

 では、言おう。真理とは何かを。聞くがよい。
 全ての存在は猫に帰結する。これだ。(藤代冥砂 小説「はじまりの痕」#32)


 花冷えの一夜ふと口衝いたるは「悉く剣法駄法螺の名人」   (塚本邦雄:波瀾)

きょうにかけし者

むかし京都で、をなお。また、つまらない写真。

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”きょう”で、
 今日に懸けし者ら疲れて微笑する酒場の馬蹄形カウンター   (塚本邦雄:驟雨修辭學)

なぐはしき

ウメ、ツバキ、サクラと花ばかり。気分転換にむかし京都で、という写真を。
白沙村荘の2枚は前にアップしているかもしれないのですが記憶が怪しいので、
お口直しに3枚目もいれて、ひとむかし前のを。

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 なぐはしき京見て死ねとあかねさす天使突抜春のあけぼの   (塚本邦雄:新歌枕東西百景)

よよのよすが

かわりばえしません。ガラスの天井ならぬ知能の天井。青空が見えているのになぁ。

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dg summilux 12mm
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dg elmarit 200mm + tc1.4
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dg summilux 12mm

ある人が書いていました。

 レコードにはどうしてもノイズがつきもので、・・・ノイズなしで聴き通せるレコードは、ほぼ皆無と云っていい。仮にそのような盤があったとしても、聴き始めに針を落とすときに、ビニールに針が着地した音が「プツリ」とノイズになる。
 この「プツリ」であるとか、「ポツリ」「パチリ」といったパ行のノイズは、それほど大きな音でなければ心地よく感じられるときがある。これはおそらく、自分のフェチシズムと関わりがあり、それが微細なものであればあるほど、「プチ」「パチ」といったノイズが快く響いたりする。
 最初に気づいたのは映画館においてだった。七歳のときだ。怪獣や怪物が夜の都会を破壊していく特撮映画を固唾を呑んで観ていたとき、破壊のあとの深夜の静かな場面で、効果音やセリフではなく、「プチ」「パチ」と小さな音が画面から聞こえてきた。耳にまとわりついた、と云った方がいいかもしれない。大人になってから、それがフィルム自体が発するノイズだと知ったが、耳の中をかすかな刺激でくすぐられて、ともすれば、背筋がぞくりとなった。
吉田篤弘「アビー・ロードは晴れているか」第6回

写真も同じかなぁ。プチパチあったフィルムがなつかしい。のっぺりしたCM写真を見ていると吐き気がするもん。

”ノイヅ”で、
 愛に溺るる夜夜(よよ)のよすがや鶴の身のいづくに匿(かく)るぬばたまの羽   (塚本邦雄:閑雅空間)

梢(うれ)のうすべに

きのうの目的だった河津桜にも敬意を表しておかないと写真の神様から見放されるかもしれないから。

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dg elmarit 200mm + tc1.4
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m.zuiko 20mm 1.4

 櫻夕映その日の梢(うれ)のうすべにがこゑのむばかりはるけし   (塚本邦雄:波瀾)

ピアニシモ

友人がご近所の河津桜撮りに誘ってくれましたが、ヘソがぐっと90度曲がっているので、ミモザで。しかも盛りが過ぎてます。

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m.zuiko 20mm 1.4
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m.zuiko 20mm 1.4
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m.zuiko 20mm 1.4

塚本邦雄が含羞草とかいて「ミモザ」とルビをふっていたので、
 最弱音(ピアニシモ)に耐ふるわかもの含羞のうすべにに弦樂四重奏果つ   (塚本邦雄:星變)

怠慢や停止ではない

梅園の残りものを。残りものですからそれなりです。

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s.nokton 29mm 0.8
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s.nokton 29mm 0.8
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dg elmarit 200mm 2.8

 黑谷の晝の紅梅一抹のあはれみを死者よりぞたまはる   (塚本邦雄:閑雅空間)

たびたび引用する内田樹が、

 繰り返し述べているように、無知というのは知性のひとつの様態である。
知性のある部分だけを選択的に活性化して、他の部分を停滞させておくという知性の活動のことを「無知」と言うのである。
無知は単なる怠慢や停止ではない。
内田樹の研究室「情報と情報化」より)

といっていました。きっとpithecantroupusを救ってくれる言葉ですから、忘れないように引用しておくことにしました。

ききょ

きのうは眼がかすんで二重写しになったウメでしたが、きょうは頭の中がかすんでしまったツバキを、玄関から三歩で撮りました。

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7artisans 35mm f0.95
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7artisans 35mm f0.95

 椿姫、ラ・ボエームも欷歔(すすりなき)にて終りやがて群靑の幕   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

欷歔(ききょ)なんて漢字覚えようという気持もおきないや。覚えてもすぐ忘れる自信があります。(汗)

たぎちおわれる

さかしまも。
むかしオリンパスフレックスを使っていたころ、よく失敗して二重露出の写真を撮りました。

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dg elmarit 200mm + tc1.4
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dg elmarit 200mm + tc1.4
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s.nokton 29mm 0.8
便利になったカメラは二重露出を心配することも、ロールフィルムのカーリングを気にする必要もなくなりました。露出やピントまで自動で合わせてくれますが、ときどきこれでいいのかなぁと心配になります。

「みんなのミシマガジン」サイトで、以前にも引用した、大学の先生伊藤亜紗と介護の専門家村瀨孝生の往復書簡から、伊藤の手紙の一部を。
彼女は音楽のアンダンテ、速さでいうと、1分間に四分音符が63〜76個入るくらいを自分の師が次のように反論していると紹介しています。

 アンダンテは「歩くような」という意味です。もちろん、早足のひともいれば、ゆっくり歩くひともいます。早足のひとにとっては、その早足の速さがアンダンテであり、ゆっくり歩くひとにはその速度がアンダンテです。これをメトロノーム記号で数値的に固定して表示するのは、誤った考え方です(佐々木健一『美学への招待』、中央公論新書、2004、136頁)。

数字で処理せず生理的に処するということに意味があるんだ、と思いました。我田引水に使えそうな気がしました。

 山川のたぎち終れるひとところ流雛(ながしびな)かたまりて死にをる   (塚本邦雄:不變律)

のこすゆめ

きのうは梅の写真を撮るのが目的でした。アマノジャクは昨日、老夫婦が犬を手押車に乗せて歩く鳥居前と、マスク姿でお詣りに来た幼女と、枝に引っかかった凧だったので、きょうは本命の梅で。素直でありませんが。

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dg elmarit 200mm + tc1.4
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dg elmarit 200mm

 紅梅のあまり濃ければ「先行く」と書きのこすゆめ遺書にあらず   (塚本邦雄:波瀾)

おぼろに明けて

ひさしぶりに友人がご近所の撮影に誘ってくれました。小さな梅園で、アマノジャクがとりました。

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dg elmarit 200mm 2.8
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7artisans 50mm 0.95
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7artisans 50mm 0.95

 知命と致命の境おぼろに年明けてきのふ伐りたる紅梅一樹   (塚本邦雄:不變律)

いつか、この世界で

ことしもムービーを用意しようとして挫折しました。片々を少しだけ上げます。

ヤフーの「検索はチカラになる」をことしもしました。今年からLINEでもできるとありましたが、老人はLINEができず、いつものPCだけです。

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 黒川創短編集「いつか、この世界で起こっていたこと」をひと月ほど前から読んでいます。ああそうだったのか、そうそうそうだった、ああっ、と読みながら、言葉でつながっていく世界全体をまだ掴み損ねています。
 母娘が乗った車は津波にのまれて漂流し、その娘の兄は祖母と一緒に漁船で流されているが救助ヘリにも気づかれず、兄妹の父は姪と二人で壊れた家の中で沈みつつある。そんな話の中に北極の氷やサハリンの森林の話が出てきます。

毎年の照井翠「龍宮」から、
 小鳥来るきのふは番ひけふ一羽
 三月や遺影は眼逸らさざる
 半眼に雛(ひひな)を並べゆく狂女

回転五分前

すき間時間の成果、いえアマノジャクの証明なお。

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m.zuiko 20mm 1.4
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tokina 300mm 6.3 reflex

 カラオケ「チェルノブイリ」開店五分前怒り心頭に發したれども   (塚本邦雄:汨羅變)

cocu

毎日が日曜日のpithecantroupusにとっては少し動いただけですが「ひと仕事」終えてきました。その仕事の合間に写真も撮れました。アマノジャクらしい写真。

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m.zuiko 20mm 1.4
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m.zuiko 20mm 1.4

 楡の切株に腰かけ友情について議論をするコキュ同士   (塚本邦雄:水葬物語)

時計の針

梅小路へ行った日は梅の名所にも行ったようですが記憶にございません。大丈夫か、この頭。

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きのうの3.11つながりで河北新報のコラムから引用します。

 ・・・<時計の針が前にすすむと『時間』になります 後にすすむと『思い出』になります>。寺山修司は『思い出の歴史』と題した詩に記したが、止まったままの時もある。大切な家族を波間に見失った遺族。原発事故で散り散りになった家族。人生が変わってしまった人にすれば、震災が思い出の一片になりはしまい。
 震災から間もなく11年。惨禍を経験していない世代に記憶をどう継ぐか。災後を生きる者の自問が続く。
(2022.03.04河北抄)

筆者は記者だから”記憶を引き継ぐ”というのでしょうが、はたして”思い出”としての記憶でいいのでしょうか。
この今の課題、未解決の問題、悲劇、悲しみの原因となった3.11を刻まなければ風化するばかりではないかと思うのです。

 蝶墜ちて空氣さびしきあらがねの地震観測所裏初霜   (塚本邦雄:黄金律)

思うようにならない記憶

出来は別にしてひと仕事終えました。追ってくる時間がこれで一つ減りました。気持に余裕ができたので”むかし梅小路”を三枚。写真の出来はタナ上げで。

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もうじき3.11です。WEB岩波の「たねをまく」連載〈3.11を心に刻んで〉から写真家 畠山直哉の回の一部を引きます。

 人の記憶が重要なのは、それが人の意識を支えているからだ。・・・意識は人の行動を支えている。・・・。
 問題は、その「記憶」というものが、こちらの思うようにはならないということだろう。勝手にぼやけたり変形したり消えたり生まれ変わったりする。・・・(さらに)個体の命が尽きれば記憶も一緒にこの世から消えてしまう。これは生物学的な限界なのか? と、諦めそうにもなるが、その限界に挑戦することを諦めないのが人間の本性であると、僕は信じたい。言葉や文字、映像技術などは、そのために先人たちが産み出してくれたものだったはずだ。

そういう写真家は、池澤夏樹『春を恨んだりはしない──震災をめぐって考えたこと』から、「あの時に感じたことが本物である。風化した後の今の印象でものを考えてはならない」を引用して、『池澤夏樹さんが「風化した後の今」と書いたのは、震災からわずか5カ月後のことだった。』と風化に抵抗しています。


 琵琶行一首以外の記憶喪へる晩年の父を宥してやらう   (塚本邦雄:汨羅變)

すみやかに老ゆ

また梅小路にもどって、あすは久しぶりの仕事なので準備に忙しくて、一枚だけです。

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 吾もすみやかに癒ゆ 幻の汽罐車を停めて火明(ほあか)りに鹽嘗(な)むる火夫   (塚本邦雄:日本人靈歌)

さきの世の

おとこはだまってピテカントロウプス。ジェンダー・バイアスかかっているけれど。

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 海石榴園(つばきゑん)あゆむ一人は前(さき)の世の刎頸の友、われが見えぬか   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

三歩、三次、三日

玄関から三歩写真で変わり映えしないツバキです。写真を撮る眼も頭も老化している証拠写真がちょっと寂しい。

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三歩の”三”で、
 第三次日露戰爭三日後に勃(おこ)らうと七種粥が食ひたし   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

一歩あやまつ

タイムリミット近し。回想のウメで。

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 梅月夜一歩あやまつときめきのこのきりぎしに眠る蝮(まむし)ら   (塚本邦雄:睡唱群島)

栄あれ

梅小路へいった日は当然市内でも撮ったようですがどこへ行ったのか思い出せません。だって10年以上も前なんだから、これは老化現象ではなく正常な記憶力。
と、思いたい。

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 梅の花雪も白妙すべて吉 香に匂ふきみに榮あれ   (塚本邦雄:吉香帖)


野暮用のタイムリミットがせまっているのできょうは大急ぎ。

うめ小路になぜか

季節感がない写真を回想の沼から。京都で撮ったみたいです。

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季節が違いますが”小路”で、
 袋小路になぜか酔芙蓉が二輪かたぶき 錺屋(かざりや)志摩六太夫   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)