夕菅すがうら

むかし滋賀菅浦でをまた性懲りもなく。

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 夕菅刈り拂って三月(みつき)くらしたる山荘と戀敵の屍(し)さらば!   (塚本邦雄:汨羅變)

青い影

自転車好き、格子好き、石畳好きの記憶。

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プロコル・ハルムのボーカルだったゲイリー・ブルッカーの死がニュースであまり報じられなかったことが不満です。
”A Whiter Shade of Pale”をはじめてきいた高校生時代からずっと好きでしたが、長いあいだ曲名を間違えて記憶していました。
記憶なんていいかげんなものです。

青じゃなくて紅だけど、
 ピレネー山脈戀ひて家出づ心臓のあたりわづかに紅き影曳き   (塚本邦雄:綠色研究)

にがよもぎ

むかしの写真で目くらましを。2010年美濃。

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 苦艾(チエルノブイリ)の香りかすかに移りたる雪かロシアの雪ひとつかみ   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

来てすぐ

ひとむかしまえ、2月ですがひな祭りをしている美濃に行ったと写真が言ってます。

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写真家石内都が国際文化会館でおこなった対談「声なき声に寄り添って―アートが紡ぐ、戦争と人間の記憶」から彼女の発言を引用します。

 撮影している遺品は被爆した物ですから、傷つき、汚れているんです。でも醜いかと言えば、そうは思いません。美しくなければ、私はシャッターを押せませんから。むしろ私の中には、美しくしてあげたいという意識があって「私には見えているよ、わかっているよ」という気持ちで撮影しています。遺された物たちは語らないけれど、写真を撮ることで、物から聞こえてくる声を伝える力をもらっているように感じます。
 遺品がこんなに美しいはずはない、と批判を受けることもあります。でもね、被爆する前はもっときれいだったわけですよ。それに写真をプリントで見れば、原爆の跡が確かに残っている。・・・私がかかわるときにはそれを情報にしたくない。表現者の姿勢と責任という意味において、何よりも美しさを意識して「ひろしま」を作っています。


写真を”情報”の手段に終わらせたくないは”作家”の言葉ですね。やっぱり石内都はいいなぁ。

 原爆展觀に來てすぐにかへりゆく少女酷寒の黑き手袋   (塚本邦雄:装飾樂句)

ゆる

何撮ってるのです。むかしから。

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前にも引用した晶文社スクラップブック連載「いのり、いのち 東京牧師日記」(沼田和也)から第7回「赦しを語ることができない」の一部分、

(ひとびとから癒しや救いを求められるわれわれ宗教家は「手放すこと」「赦すこと」について語り、怒りの火に油を注ぐような「怒ること」「赦さないこと」は語らない。とはいえ、)なぜあの人、一方的に傷を負わされたあの人が、自分でその傷を癒さなければならないのだろう。わたしは彼女をはじめ、不正義によって受けた傷から血を流す、幾人かの顔を思い浮かべずにはいられない。そう、わたしは「手放すこと」や「赦すこと」を、彼ら彼女らに対して、決して語れないのである。宗教家であるにもかかわらず、わたしは赦しを語ることができない。

正直だと思いました。言葉に責任を持つ人だと感じました。

ゆるしの代わりに”ゆる”で、
 ゆるやかに死をまねきよせつつわれや「嬉遊曲・アレグロ・エ・マ・ノン・トロッポ」   (塚本邦雄:汨羅變)

きさらぎの

きのうは落ちたツバキの花弁がふちの方からもう黄変しかかっているのをわざわざ拾ってきて撮りました。地面に落ちた花などゴミ以外の何物でもないのに。
きょうはもうすこしましな花を。

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m.zuiko 60mm 2.8 macro
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m.zuiko 60mm 2.8 macro

前に”鈍感力”を引用した金井美恵子の連載続編を読んでいたら坂口安吾の言葉で結んでありました。(「コロナ後の世界」には女はいない、あるいは、分別と多感④

(安易に使われた天使という言葉への違和感を様々に述べた末に)坂口安吾のことを思い出して、自分の気取った滑稽さを思い知ることになってしまう。言葉に関して繊細な安吾は、頭痛薬の「ケロリン」という名前がなんとも恥ずかしくて口にすることが出来なかったと言うのだ。何かを伝えようとする繊細さには、いやな物はいやだと言う際の芸が必要なのである。

別のところに小池真理子が夫藤田宜永を亡くしたあと書いた「月夜の森の梟」の書評(若松英輔『小池真理子「月夜の森の梟」 言葉の「絵」に見るかなしみ』)があって、そこに引用された小池の『言葉にならない気持ちを理解されたいと願えば願うほど、真の理解は得られず、哀(かな)しみが深まっていくことはよくわかっている。だから何事もなかったようにふるまう。笑ってみせる』という言葉と重なるものを感じました。

 ほつれつつ言葉は空の霞網きさらぎの水反芻(にれが)むわれは   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

紅き猫

玄関から三歩で拾ってきた”ゴミ”をアルミホイル上で撮った一昨日の写真に味をしめて、きょうは”ゴミ”をいっぱい集めてキッチン・カウンター上で撮りました。

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m.zuiko 30mm 3.5 macro
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m.zuiko 30mm 3.5 macro

ネコの日だそうですので季節外れですが、
 秘密もちてこもれるわれの邊に睡り初夏(はつなつ)耳の孔紅き猫   (塚本邦雄:日本人靈歌)

言語的要素

いつか見たような写真ばかりを回想の沼から引きずり出して。

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雑誌PENのサイトに写真家藤代冥砂の一年前のインタビューがあったので一部分を引用して。(”写真を超えた“なにか”がそこにある。『永遠のソール・ライター』展を、写真家・藤代冥砂と訪れた。”)

「僕は作家の内面を探ることに興味があるんです。ソール・ライターの作品は、言葉の形跡が希薄。荒木経惟さんに代表されるように、写真家の中には言語的要素を強く取り入れた作品を手がける人も少なくないのですが、ライターの作品は作為的じゃない分、鑑賞者も想像を自由に広げていくことができる。そこにある空気感は清々しく、触れるほどに気持ちが軽やかに、透明感に満ちていくのです。・・・」

日本のプロは饒舌な写真でないと食っていけないのじゃないのかなぁ。カメラレンズや名所観光地を売らなきゃならない。

 萬國旗つくりのねむい饒舌がつなぐ戰(いくさ)と平和と危機と   (塚本邦雄:水葬物語)

はずなのに

近頃茶色系の写真ばかりで色気がなかったので気分転換の一枚だけ。

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zuiko ED 50mm 2.0 macro
ときどき見るサイト「好書好日」に湊かなえが作家西村賢太の追悼文を書いていました。(湊かなえ「残された希望としての本」)
西村賢太という名前は頭の中にほとんど残っていないので、いつものように検索したら彼と山田ルイ53世とのインタビュー記事がありました。

西村:僕自身はSNSはまったくやりませんが、スマホで育った世代でもないのに、スマホ上でエキサイトしている中高年たちを見ると、正直、気味が悪い。偏った価値観を押しつける人が多すぎるし、「ネットの声」を変に重用する人も多すぎます。どちらも、みっともない。
山田:結局、「どっちについたら勝ち目あるか? マウント取れるか?」みたいな部分があって、「ほんとにご自身がそう思ってるの?」と。
西村:自分自身と向き合うのも精いっぱいなのに、他人の勝手な価値観に影響されるのなんてまっぴらです。僕は自分の書いた小説すら、書き終わると同時に忘れ去るくらいですから。「もっといい作品にできたはずなのに」などとネガティブな感情が湧くでしょう。もう、その時点で辛い。


pithecantroupusも「もっといい作品にできたはずなのに」と撮った後でいつもつぶやいています。

芥川賞作家西村賢太にちなみ”賞”で、
 春暁の鳥肌立ちて讀み返す迢空賞受賞歌集跋文   (塚本邦雄:獻身)

挽歌は沈黙で

11年前の写真で今日も寡黙に。

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 冬霞たつやカルロス・ガルデルの「沈黙(シレンシオ)」わが挽歌となさむ   (塚本邦雄:豹變)

うそさむい

まいど何撮ってるのですが、三枚目だけは、最近写真に興味を失った友人を憐れんで彼の記念写真。元気になってほしいなぁ。

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 あはれ國歌、口閉じ唱ふ振りするは學生 襟頸がうそ寒し   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

黙しつつ

きょうは寡黙に。11年前の写真で。

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 黙(もだ)しつつかたみに剃りしほほかげのあざらかに禁斷の別れよ   (つかもとくにお:靑き菊の主題)

何かあるかもしれない

つまらない写真ですが毎日つづけていることを褒めてもらおう、っと。(笑)

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以前に上田義彦を引用したサイトから、Piczoというファッションフォトグラファーの言葉を。

カメラは持ってると発見があるからね。カメラを持っていないと見逃してしまうことって本当にいっぱいある。人に会う時も、カメラを持っていると持っていないとでは自分の中に残る記憶や印象も全然違う。カメラを持ちながら、「何かあるかもしれない」 って気持ちでいるのはなかなか刺激的ですよ。(「綺麗な写真の手前にある綺麗な眼差し」より)

人は大の苦手だけど、景色だっておんなじだぁ。「何かあるかもしれない」ってワクワクするもの。

綺麗の”綺”で、
 罌粟枯るるきりぎしのやみ綺語驅つていかなる生を寫さむとせし   (塚本邦雄:天變の書)

凍る夢

あっぷあっぷ。おぼれるぅ。夢だと分かっていても覚めない。

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 星一つみどりに凍る否夢にすら翡翠(かはせみ)のかげは見ざれど   (塚本邦雄:睡唱群島)

限界にして

10年以上以前に撮った同じ月の写真をつづけていますがそろそろネタが尽きかけてきました。限界?

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限界のかわりに狷介で、
 狷介にして三人の美しき子女有(も)てり 風のなかの翌檜(あすなろ)   (塚本邦雄:装飾樂句)

渺=10のマイナス11乗

勝手な、自分勝手な。むかしからそうでした。

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作家の多和田葉子が言ってました。(BRUTUS「作家・多和田葉子が考える。国、民族、言語、境界を超え世界とどう繋がるのか」Akane Watanuki)

そもそも私がものを書くようになった端緒は、子供の頃に言葉というものが不思議だと思ったこと。生きているように見えたり、言葉を一つ言っただけで人が動揺したり喜んだりする、その不思議な力に惹かれました。

なぜ”言葉”なのかと考えていたら、多和田が教えてくれたような気がしました。
津波に巻き込まれた若い母と幼児がでてくる、3.11をモチーフにした短編をいま読んでいて、手を握りしめるでなく、頭を抱くでもなく、ナゾナゾ遊びを始めるのです。
毎日写真の出来のわるさを言葉の神様に救ってもらっているのに気づかないなんて。

 はなむけの渺(べう)たる言葉遊星ははかなき夕映に溺れたり   (塚本邦雄:芒彩集)

不在あり

むかし亀山市関町へいった前後に滋賀県菅浦へも行ったようです。pithevantroupusは記憶にございません。
写真が証明しています。pithecantroupusのアリバイは崩されました。(汗)

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 體育館まひる吊輪の二つの眼盲(し)ひて絢爛たる不在あり   (塚本邦雄:綠色研究)

傘さす

まだ関です。数で勝負です。(汗)

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 雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ   (塚本邦雄:感幻樂)

ヨイヨイ

関の雪なおなお。

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新潮社「波」に山折哲雄が「ハイカラな本にはロクなものがない」を書いていました。そこに紹介された小林秀雄の講演から引用します。

 こないだね、僕は、こっち来る前に、柳田国男さんのね、故郷七十年という本を読んでた。昔から僕は聞いてた本だけども、ん、読まなかった、諸君、読んだ人あるかねえ、んー、柳田国男さんていう人は、諸君もよく読むといいですよ。あの、ハイカラみたいな本ばっかり読まないでね、ハイカラみたいな本、今、だいたいハイカラみたいな本、ろくな本はないです。

(そして柳田国男「ある神秘な暗示」(故郷七十年)に書かれた柳田が正気を失いかけた話から)
 僕はそれを読んだときね、非常に感動しましてね、ははあ、これで僕は柳田さんという人はわかったと思いました。そういう人でなけりゃ民俗学なんていうもんはできないんですよ、民俗学というのもひとつの学問です、学問だけど科学ではないですよ、科学の方法みたいな、あんな狭っ苦しい方法では民俗学っていう学問はできないんです。それからもっと大事なこと、もっと大事なことは、ヒヨが鳴かなかったら発狂するっていうような、そういう神経を持たなけりゃ民俗学っていうものはできないんです。そういうことをよく諸君考えてごらんなさい、諸君は目が覚めないか、そういう話を、僕はほんとにそのときに、はっと感動してね、あっ柳田さんの学問の秘密っていうのはここにあったんだ、こういう感受性にあったんだ。(石川則夫「続・小林秀雄と柳田国男」より)

ヒヨが鳴かなかったら発狂する神経かぁ。pithecantroupusは永年のハイカラに毒されてしまったからなぁ。うらやましいなぁ。

ヒヨのいる歌を、
 發想の還らざるかなよひよひに群靑(ぐんじやう)の枯蓮を夢みて   (塚本邦雄:豹變)

はるけさ

亀山市関の雪なお。

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 群靑の雪ぞこころの畦に散る被虐の戀のあはれはるけさ   (塚本邦雄:されど遊星)

おおはるかなるもの

寒いのでむかし寒かった記憶を。隣の亀山市で14年前。

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GQ JAPAN去年4月EDITOR'S LETTER『大切なもの」はなあに?』(鈴木正文)から、

 父親も母親もすでに亡くして久しいけれど、彼らの大切にしていた「モノ」を、僕はなにひとつもっていない。(父が弾いていたピアノ、自慢のテニスラケット、出勤にかぶっていた帽子もない。)あるのは、そういう「モノ」の記憶と、かれが吸っていた「ホープ」というタバコの煙のたゆたう記憶だけ。・・・そういう「モノ」の不在がいくぶんうらめしい。なぜなら、僕の人生にも、なにか「大切なもの=モノ」があってほしい、とおもわないでもないからだ。ないのなら、それをいまからでもつくっていこうか。

ブログは「モノ」のかわりになるかなぁ。

”もの”の歌を、
 おおはるかなる沖には雪のふるものを胡椒こぼれしあかときの皿   (塚本邦雄:感幻樂)

いぶきのいびき

きのうの写真を撮ったときの”記念写真”で。

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この写真を撮った当時のカメラはオリンパスのE-300とE-500でした。コダックのCCDを使ったカメラがなくなると聞いてあわてて買ったなぁ。E-500はスタイルがわるいので躊躇していたけど。

 伊吹吾朗の鼾、花園妙心寺黄鐘調(かうじきてう)の鐘と競へよ   (塚本邦雄:約翰傅偽書)


妙心寺黄鐘調の鐘を知らずにまたまた検索に頼るpithecantroupus。いつになっても無知ですね。

『徒然草』の第220段の中で次のようなことが書かれています。(原文略)
 (鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を黄鐘調にするべく何度も鋳造したが、結局は失敗に終わり、遠くから取り寄せることになった。亀山殿の浄金剛院の鐘の音も、諸行無常の響きである。)
 元来、黄鐘調とは雅楽に用いられる六調子の中のひとつで、オーケストラの最初の音合わせに用いられる音階、つまり、基本となる音のことなのですが、その意味合いを鐘の音に置き換えて、鐘の最も理想的な音(西洋音階の「ラ」)を“黄鐘調”としているわけです。
 そして不思議なことに、オーケストラの音合わせに用いられる基本の音の周波数は129ヘルツなのですが、この古鐘の音の周波数も同じ129ヘルツなのだそうです。まさに、この古鐘は“黄鐘調の鐘”と呼ばれるに相応しい、理想の音を鳴り響かせる鐘なのです。


立春の雪

寒いです。日曜日でも家事労働は休みなしです。先日引用した「あなたは、大切な人だ」を自分で自分で言って憂さ晴らし。むかしの雪で。

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 肝胆相照らすといへどひひらぎてけさ立春の雪ちる近江   (塚本邦雄:豹變)

であひがしらにこの

もう何年かぶりのパワーポイント。終わってガックリ。ダメだぁ。
回想の世界へ逃避して傷をなめるpithecantroupus。

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季節が全然違うのですが、
 眞水の香突如するどし八月のであひがしらにこの百合鷗   (塚本邦雄:天變の書)

なほ

伊良湖蒲郡なお。回想法のつづきです。

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季節がちがいますが「なお」なので、
 なほゆかむ言葉の彼方文字の森さやけきひびき傳ふる九月   (塚本邦雄:靑雲吟)

鬼の六十

気がつけば節分です。
豆さがさなくては。どこかの隅っこに去年の残りがあったような記憶が。
むかし節分の日に撮ったは見つかったのですが。

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 ロドルフォのアリア歌つて殴られし護國の鬼の六十回忌   (塚本邦雄:汨羅變)

ゆかばいろなき

神島へ行った前後に伊良湖蒲郡へもいった記憶はあやしいけれど写真がそう言っています、認知症ではありませんよ、10年以上前の記憶なんだから。(汗)

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岩波「図書」2022年1月号試し読みに関川夏央『「晩年」とはいつのことか?』という記事がありました。
人には程度の差はあれ全盛期がある。』で書きはじめられた文は、『では晩年は? 自分の晩年はいつからだったか。』と自問して、

 たしかに加齢した。あらゆる欲望に淡白になり、体力は衰えた。記憶は不確かさを増し、「五衰」の相が顕著である。だが、それがいつ始まったものか、覚えがない。
 昔は若かった。昔の空は青かった。それらはたしかに消え果てた。といって、いまが晩年だとは認めない。認めたくない。若干の未練をこめて昔を回想し、連れ合いや旧友とひっそり語りあいながら、淡々と日を消す。


文の全体は執筆者の人間晩年図巻という本の宣伝なのですが、わが親を見てあと20年は歩いていくのかとため息をつくpithecantroupus。あぁ。

 老いゆかばいろなき冬日きみも背にうけつつ孤り焚かむ枯菊   (塚本邦雄:透明文法)

恍として

むかしの神島で、恍惚か”半”恍惚かわからないけど確かにおかしい、という証明写真。

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 恍として犬齒抜かれつ 靈媒に招(よ)ばれし昨夜(よべ)のつゆけき父よ   (塚本邦雄:水銀傳説)