2022/02/23
きのうは落ちたツバキの花弁がふちの方からもう黄変しかかっているのをわざわざ拾ってきて撮りました。地面に落ちた花などゴミ以外の何物でもないのに。
きょうはもうすこしましな花を。

m.zuiko 60mm 2.8 macro

m.zuiko 60mm 2.8 macro
前に”鈍感力”を引用した金井美恵子の連載続編を読んでいたら坂口安吾の言葉で結んでありました。(
「コロナ後の世界」には女はいない、あるいは、分別と多感④)
(安易に使われた天使という言葉への違和感を様々に述べた末に)
坂口安吾のことを思い出して、自分の気取った滑稽さを思い知ることになってしまう。言葉に関して繊細な安吾は、頭痛薬の「ケロリン」という名前がなんとも恥ずかしくて口にすることが出来なかったと言うのだ。何かを伝えようとする繊細さには、いやな物はいやだと言う際の芸が必要なのである。別のところに小池真理子が夫藤田宜永を亡くしたあと書いた「月夜の森の梟」の書評(若松英輔『小池真理子「月夜の森の梟」 言葉の「絵」に見るかなしみ』)があって、そこに引用された小池の『
言葉にならない気持ちを理解されたいと願えば願うほど、真の理解は得られず、哀(かな)しみが深まっていくことはよくわかっている。だから何事もなかったようにふるまう。笑ってみせる』という言葉と重なるものを感じました。
ほつれつつ言葉は空の霞網きさらぎの水反芻(にれが)むわれは (塚本邦雄:靑き菊の主題)