宴はお預け

年賀状づくりが重荷です。
トラはすでにいるのですが。

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m.zuiko 30mm 3.5 macro
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m.zuiko 30mm 3.5 macro

 『現実というのはほんらい、内臓の時間、自然の時間、時計の時間、歴史の時間などいろんなリズムを刻む時間が、雑然、雑多に絡まって錯綜しているものだ。』と鷲田清一は言います。(『図書』2021年11月号 「残念だが、パーティーは次回にお預けだ」

 そしてそれらの(様々な時間の)一つひとつに、さまざまの「折り目」や「節目」といった仕切りが差し込まれている。恒例の季節行事や記念日、始業の日、締め切りの日。それらがしかし、コロナ禍のもとでことごとく延期ないしは中止になった。そしてそもそもそういう仕切りのあったことも思い出しにくくなった。このように「きょうは~をした」と数えられるような行為もわずかになると、時間は表情も律動も失い、のっぺらぼうになる。

 鷲田は『どんな困った状況にでも対抗できるそれならば持っている。何かにつけ、始まりの日付と終わりの日付を知りたがるのはそのためだ。』という、イタリアの作家パオロ・ジョルダーノも引用しています。


 冬の宴の料理ならざれども蟇目良のみづみづしき向う脛   (塚本邦雄:詩歌變)

残んの

のこりもので手抜きです。

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7artisans 35mm 0.95
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m.zuiko 30mm 3.5 macro
 もてあそぶ言葉や露のゆふぐれに殘んの蓼のみだるくれなゐ   (塚本邦雄:されど遊星)

末に残る

手入れのわるい庭でも今年もツバキの花が咲いてくれました。さっそく記念撮影。記念になっていない? 自己満足でいいのです。

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7artisans 35mm 0.95
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dg elmarit 200mm 2.8
上田義彦は好きな写真家のひとりです。”THE FASHION POST”というサイトにインタビューが載っていました。(「終わった後もそこに残る思いを見ていたい」上田義彦

 (写真は、「考えるより前に撮れ」と言いますがという質問に、)もっと極端に言えば、何かを感じたら「見る前に撮れ」というぐらいの意識。写真においては、それがすごく大事だと思っています。当然、写真でも事前にどこでどういうふうに撮りたいという考えはありますが、あくまでそれは抽象的なものです。実際にカメラをのぞいたら、「あ!」という瞬間にシャッターを切る。見えていることに対して、動物的に反射する。たった1枚のためにその瞬間を捉えられるかどうか、捕まえることができるかどうかということに集中する。

 (後に残る思いを見ていたいというのは上田さんの一貫した視点のようだという質問に)写真はある瞬間を切り取りますから、断片的に見えるかもしれないけど、その1枚の写真を見続けることができるのかということが重要な問題なのです。見る側がその写真の前から立ち去るまで、その時間は続く。どれくらい写真の強度があるのか。それは内在しているものを生け捕れているかどうかによる。ただ綺麗にうまく撮れているかではなくて、写真を見ている人が、その写真を見ることをやめるまでこの瞬間は続くんだと思わせる程、存在がぼってりと写っているか。長い時間見られることに耐えることができる強度のある写真、そんなものを撮ろうとしている。断片なのに全体を感じることができる、瞬間なのに永遠を感じさせる時間。それは見る側との関係性の中で生まれるものだと思います。・・・


聞くは易く行うは難しだなあ。
憧れているのだけれども。

 欅伐らば次なに賣らむ 終末に殘るは石榴石かたましひか   (塚本邦雄:歌人)

のすき間

ちょっと息抜きの日でした。こんな日は頭の中まで弛緩しています。ボーっとしていてもいい日です。

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dg nocticron 42.5mm 1.2
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dg summilux 12mm 1.4
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dg nocticron 42.5mm 1.2
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dg summilux 12mm 1.4

 血と肉の隙閒にはかに冴えわたるわがうつそみか紅葉(もみぢ)照りつつ   (塚本邦雄:新歌枕東西百景)

くわうえふの

お昼ご飯のついでに友人がちょっと寄り道してくれました。友人お気に入りの大イチョウの木があるのですが、まだ少し早かったみたいです。

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dg nocticron 42.5mm 1.2
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dg nocticron 42.5mm 1.2
なぜかタンポポ。
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dg nocticron 42.5mm 1.2


 黄葉(くわうえふ)の若狭にありて書きおくる母死にき鸚鵡死にき葬(はふ)りき   (塚本邦雄:天變の書)

僕はコーヒー

きょうの寒さに時間の進む速さを感じます。

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nokton 60mm 0.95
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nokton 17.5mm 0.95

きのう引用したウスビ・サコ「まだ、空気読めません」 記事から別の部分を引用します。
彼は、いくつかの国や民族の言葉を話せるが、日本語ほどむずかしい言語はないと書いています。
理由は、『日本語には論理性がない』からだそうです。

 外国人の多くは、はじめに日本語の文法から教えられ、しだいに会話を習っていきます。学習のなかでの教科書的な日本語であれば、まだ論理的に理解できることもあります。ところが、実際の生活のなかでは、「にぎやかでよろしいね」が「うるさくて迷惑です」を意味するなど、教科書どおりにはいかないのです。

 文法の学習のなかでも、どういうことやねん、と違和感を覚えてしまうことがありました。たとえば、喫茶店で注文をする場面の練習です。「何になさいますか?」という質問に対し、「僕はコーヒーだ」と答えることが、どうしても腑に落ちませんでした。たとえば英語で、“What do you want ?”と聞かれて“I’m coffee.”と答えるなんてありえません。


やっぱり異邦人の言葉は面白いなあ。鏡に映った自分を見せられているみたい。

 珈琲噴きこぼれて燃ゆるたまゆらを去りがたしこのまぼろしの生   (塚本邦雄:星餐圖)

さかしまにつるされ

さかさま、さかしま。
どちら?
有名なユイスマンスは「さかしま」で、「さかさま」とは言わないし。

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m.zuiko 25mm 1.2
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nokton 60mm 0.95
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nokton 60mm 0.95

 酸し月のひかり一生(ひとよ)をさかしまに雉子藍靑(らんじやう)の身をつるされつ   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

世界思想社サイトの「ウスビ・サコ著『ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」 』ためし読み」から、

 日本人が「空気を読む」のは協調性があるからなのだと、よくいわれます。しかし私は、その場で本音を伝えない「逃げ」こそ、協調性がない行為だと思っています。「空気を読む」「はっきり意見を言わない」「みんなとは反対の意思を悟られまいとする」など、日本では美徳と思われがちな行為は、むしろ人間関係を冷淡にしているように思います。

どちらかと言えば空気を先読みしてしまうpithecantroupusには、マリという国から来た異邦人のことばは耳が痛いなあ。
彼は、文化人類学者エドワード・ホールを引用して、日本の「空気を読む」という文化は、直接的な言葉ではなく、文脈や暗黙の了解を重視しながらコミュニケーションをとる文化(ハイコンテクスト・カルチャー)の最たる例といってます。

夜寒朝寒

年賀状を作らねばと思いつつ手が進みません。
何年も使っていないテープデッキをコンセントにつないだら明かりがつきました。

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一昨日のコートの裾、スカートのヒップを思い出して、
 霜月は夜寒朝寒(よさむあささむ)かはたれに舞ふ巫女(かんなぎ)の緋の袴さへ   (塚本邦雄:新歌枕東西百景)


歩哨のごとし

紅葉に集中できないpithecantroupusが気になったもの、あれやこれや。

私はアルコール依存症ではありません。
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肉眼では見えないけどカメラで覗いてみれば。
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養魚場を見張っている歩哨。アッ、立たずに眠っている。
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見張り中の歩哨で、
 枇杷啜りつつ屋上に突佇(つつた)てる父今日もなほ歩哨のごとし   (塚本邦雄:汨羅變)

すなはちほそるこころざし

紅葉なお。

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nokton 60mm 0.95
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nokton 60mm 0.95
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nokton 60mm 0.95

文春オンラインで内田樹と武田砂鉄が対談していました。

武田 アイディアの泡を出すテクニックはあるんですか? 
内田 なんだろう。わずかな変化を見落とさないことですかね。曲がり角を今曲がっていった人のコートの裾だけがちょっと見えるってことがあるでしょう? アイディアのとっかかりって、そういうふうに視野の外縁部にチラッと見えるだけなんです。でも、何かが見えたら、「知的な動体視力」を働かせて、それを追っかけてゆく。驚かされないために、こまめに驚く

武田 「知的な動体視力」は訓練で体得できますか?
内田 できると思いますよ。よく若い人たちには「驚かされないためにはこまめに驚くのがよい」と言ってます。「驚かされる」というのは受動態だけど、「驚く」は能動態です。「人こそ見えね秋はきにけり」と同じで、人が気づかないわずかな変化を感知する。わずかな変化がそのあと起きる世の中の大きな変化の予兆だったということはよくあるんです。だから、「風の音にぞ驚かれぬる」という態度でいることが知的動体視力を高めることにつながると思います。


動体視力は歳とともに低下したなぁ。知的なと言われれば、さらに落ちてるよなぁ。でもチラッと見えるのがコートではなくスカートで、裾ではなくヒップだったら、きちんと目で追えるかも。胸はどうなんだと推理する知的もあるし。(セクハラ? 汗)

 視野狭窄すなはちほそるこころざし見ぬ世にかすむ冬の曙   (塚本邦雄:されど遊星)

かきあはす紅葉

せっかくの紅葉撮りなのにpithecantroupusはひねくれてますねぇ。

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nokton 60mm 0.95
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dg summilux 15mm 1.7
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nokton 60mm 0.95

 詩歌周邊まで來て襟をかきあはす紅葉冷えてふ季語はありしや   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

紅葉写真

これでも紅葉写真のつもりです。
肝心のモミジは小さく枯れているし、金網の方が主役になっているけど、紅葉の季節にしか撮れない写真でしょ。(汗)
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m.zuiko 25mm 1.2
毎度の天地逆さま。ワンパターンです。
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m.zuiko 25mm 1.2
お口直しに。
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nokton 60mm 0.95


 銀杏(ぎんなん)の綠珠(りよくしゆ)くちびるもて挟み 死ののちの生愉しきや否   (塚本邦雄:汨羅變)

かきさしかきけし

寺のイチョウは大木でした。となりに養魚場があって魚籃観音像が立ってました。

観音は中性だそうですが、どうしても女性をイメージしてしまいます。
さすがにpithecantroupusでも、観音様やマリア様の前では敬虔な気持ちになりますが、敬虔な気持ちからは程遠いところへ連れて行ってくれるヒンドゥの女神様も大好きです。あのバンバン!

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laowa 4mm 2.8
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m.zuiko 25mm 1.2
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nokton 17.5mm 0.95


15日の記事で瀬戸内寂聴を引用しましたが(正確には秘書の瀬尾まなほのことば)、寂聴ご本人の言葉で同じことを、

 (92を越えて体調が悪いことが多くなり)退院しても横になっていることが多く、いつの間にか鬱状態になっている。はっとそれに気がついた時、死ぬ時はペンを握って机にうっ伏したまま、死にたいと思った。それには自分の余命を愉しくしなければ・・・。(以下略)
 百年近い生涯、こうして私は苦しい時や辛い時、自分を慰める愉しいことを見いだしては、自分を慰め生き抜いてきた。(寂聴句集「ひとり」あとがき)


 返信に戀句書きさし掻き消せる彼奴(きやつ)のほほゑましき勇み足   (塚本邦雄:汨羅變)

見はなされ

きのう撮りに行ったのは三重県の北部、いなべ市のお寺でしたが、pithecantroupusにとってはどこで撮っても同じような写真ばかりです。
きょうも、どこ撮ってるのと言われそう。

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nokton 60mm 0.95
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m.zuiko 25mm 1..2
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m.zuiko 25mm 1.2

菅前首相が官房長官のとき、記者会見でいつも、安部総理の発言を「お言葉」と引用してたことを非常識きわまると思っていましたが、次の文を読んで、pithecantroupusの感覚は正常だったと思いました。

 加計学園の獣医学部新設問題で、文書に残されていた「総理のご意向」との記載が話題になった。橋本が注視するのは、経緯ではなく、「ご意向」の「ご」。なぜ「意向」ではなく「ご意向」なのか。「行政のトップに立つ人間に、実際の行政機関の中で働く人間が「ご意向」なんて言うかね?」「もう北朝鮮のことなんか笑えないなと思う」。武田砂鉄「橋本治というジャンル」)

武田砂鉄が引用した橋本治のことばです。

 イクラ月光色の霜月舌荒れてわれは言靈に見はなされたり   (塚本邦雄:詩歌變)

けふ

ようやくきょう撮りたての写真を。とはいえ、進歩なし。退歩あり。

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m.zuiko 25mm 1.2
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m.zuiko 25mm 1.2
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m.zuiko 25mm 1.2

今日は寡黙に。
 顔洗ひし眞冬の水に脂ただよへり わが死ののちもある今日   (塚本邦雄:日本人靈歌)

つねにあこがれ

きのうの一枚目やきょうの三枚目などは、ミノックスでランドスケープを撮っているような限界がありますが、目がかすんだ老人にはこれでも十分です。
でもニコンのzfcやマミヤのGFX50Rにはちょっと憧れるなあ。

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 迷ふことなき守護神のその光り背にうけて男の心つねにあこがれ   (塚本邦雄:流露)

瀬戸内寂聴の死はちょっと衝撃でした。死なない人だと思っていたので。
66歳差の秘書、瀬尾まなほが書いていました。

 「もっと長生きしてくださいね」と会う方によく言われる。長く生きるということは、どんどん一人ぼっちになっていくことのように思う。親しい人は先に逝ってしまうから。
(95歳で書き上げた小説の)「いのち」ではそんな先に逝ってしまった、先生の古くから親交のあった二人の女流作家のことを書いている。
 「最期はね、ペンを持ったまま机の上で伏せて死んでいたい。それをあなたが発見するの」なんて死に方まで決めている先生。最期まで書く気満々である。


水が苦し

きのうの写真は10ムニャムニャ年前の湯の山温泉です。きょうも何撮ってるのの類です。

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 イエスに扮したりけるイエス霜月の噴水が苦しみて水噴く   (塚本邦雄:閑雅空間)

Chopin

仕事の段取りがへたくそになったのか、動作がスローモーになったのか、いろいろ前に進みません。ああ、歳はとりたくないものです。

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pithecantroupusが好きなもの。撮っているときにヨダレを流さなかったとは思うのですが。
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「やばい」でがっかりした下重暁子が、アエラに「ショパンと私」を連載のひとつとして書いていました。

 テレビ・新聞、あらゆるマスコミがこのこと(ショパンコンクールに日本人がふたり入賞したこと)をとりあげた。それなのに一位の優勝者に言及したメディアがほとんどなかったのはなぜなのか。日本人は日本人にしか興味がないとでも思っているのだろうか。色々探してようやくカナダ国籍の人物で名前から考えてアジア系だと見当がついた。名前だけひっそりと、顔写真もない。

スポーツでpithecantroupusがいつも感じていることが、音楽にもあったということです。マスコミは日本人を応援とか育成という思いあがりがあるのでしょうか。

 チョピンのピアノ協奏曲が聽きたしとつける藥のある莫迦娘   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

かすかにかたむき

健康診断にいったら他の人の倍の時間がかかってしまいました。素直に受診してたのになあ。なにか規格外のことでもあったのでしょうか。胴囲か、脳年齢かのどちらかが問題だったに違いない!

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きのうの2枚目の中央はボケボケの柿の実でした。証拠写真を。
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毎度の内田樹のサイトに彼がメディア書いた衆議院選挙の総括がありました。
投票率が戦後ワースト3位の55・93%の中で。19歳は35.0%だったのを受けて、若い人たちが投票をしないのは「受験教育のせいかも知れない」と言っています。(「若者はどうして投票しないのか?」信濃毎日新聞11月5日

 正解を知らない場合にはうつむいて黙っている。誤答をするよりうつむいて黙っている方が「まし」だからである。少なくとも教室ではそうだ。教師は黙っている生徒にはとりあわず、次の生徒に向かう。だから、「誤答するくらいなら黙っている方がまし」ということが「成功体験」として日本の多くの子どもたちには刷り込まれている。

 選挙では「誰に投票すれば正しいか」という「正解」が事前には与えられていない。・・・受験勉強で刷り込まれた「正解を知らないときは、誤答するよりは沈黙していた方がまし」という経験則を適用する。・・・「正解」を知らない選挙では投票しないことが「まし」だという結論になる。いささか暴論だが、その可能性はあると思う。


正解の正で、
 惑星の正午かすかにかたむきて人はくれなゐさす死の器   (塚本邦雄:されど遊星)

幽霊が好き

もっときれいに撮れるでしょう、と言われそうなのはむかしから。証明写真を。

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昨夜、宮城発ドラマ”ペペロンチーノ”という番組が面白かったです。何度目かの再放送のようですが、昨夜まで知りませんでした。
草彅剛のファンではないのですが(SMAPの”世界に一つだけの花”は嫌いな方)、幽霊の出てくるドラマや映画は好きです(黒澤清監督好きです)。
3.11の記憶に残るドラマだと思いました。

八月の歌ですが、劇も幽霊もでてくるので、
 西部劇幽霊町のぬかるみを渉る眞處女(まをとめ) 泪ながれたり   (塚本邦雄:不變律)

犬はみんな天国に行く

ご近所の回想写真。ひと昔前よりも前です。

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讀賣新聞「俺はググらない」から、

 しばらく前に、わたしもかなしい別れをしました。18さいだったわが家の愛犬です。人間ではありませんが、とても大切な家族でした。そのときわたしは、天国のことを考えずにいられませんでした。小犬のころからずっといっしょにくらしてきたあのわんちゃんは、今どこにいるのだろう。もし天国で再会できるなら、わたしもどうしても天国に行きたい、と思いました。

 ディズニーのえいがに「犬はみんな天国に行く」というのがあります。これはほんとうに正しいことを言っているのです。わたしがほしょうします。わが家の犬も、気だてがよくて、かわいくて、ものすごくおりこうというわけじゃなかったけれど、まっすぐで、正直で、だれにでもなつきました。だからあの子はきっと天国で、今も楽しそうに走り回っているだろうと思います。わたしは犬が好きなので、そう思うのです。愛する犬のさいごをみおくったことのある人なら、みんな賛成してくれると思います。では、猫もみんな天国に行くのか。それはちょっとわたしにはわかりません。
(天国と地獄は本当にあるの 国際基督教大学教授・森本あんりさんの回答「地獄に行くこどもはいない」 )

ワンちゃんは天国へ行くのかぁ。ネコちゃんは保証がないのかぁ。
彼の回答はいつも誠実です。自分が飼っていたイヌはエビデンスを示して天国へ行くといい、飼ったことのないネコについては分からないと正直に答えます。たとえ相手が子供でも。

天国と地獄はあるのという質問への回答の一部です。回答の枝葉の部分なのですが、森本アンリらしさが現れているように感じたので、記憶のために引用しました。

 飼犬ルカの戀はみのるか家具店のうらには枇杷の熟實瞬き   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

といふものを

比叡山なお。

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B面の岩波新書サイトに、『日本の公務員数は、先進国で一番少ない。』と書いてあったのでビックリしました。
著者は、「市民を雇わない国家」(東京大学出版会)を書いた前田健太郎です。そのうえで、スウェーデンの例をあげて、『男女平等への道が、実は公共部門における女性職員の増加に支えられていた』と、データで示しています。
それらの説明を進める中で、前田は自分が女性の立場への理解がいかに不足していたか、そのことで研究が遅れたのではないかと言います。

文は、「女性のいない民主主義」(岩波新書)の宣伝なのですが、ずっと気づかないふりをしてきたことを言われてしまいました。

 薩摩上布 男も袖といふものをはためかせまたたくまに霜月   (塚本邦雄:汨羅變)

チコはチキ

きょうも回想中。きのうの引用したとおり、記憶の中の時間のつながりが薄れ、意味があいまいになり、風景だけが静止画のように出てきます。ゴリラのように。

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また間違えてました。
きのう、知己という漢字が変換してもなかなか出てこなくて、IMEのあほうと思っていたら、読み方が違ってました。

チコだとばかり記憶していたのです。チキでした。
あほうはpithecantroupusでした。チコちゃんに叱られる。

 知己を探さむと獣園にきたりけり秋の駱駝のさびしき笑ひ   (塚本邦雄:黄金律)

言葉を放棄すれば

きのうは、もう使ってないレコードプレイヤーをえっちら持ち出して、ほこりを拭いて撮りました。
手をかけた割に写真はもうひとつでした。まだ干支ものせてないのに、です。
きょうは回想でひと休み。

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 浮世繪展のけむる裸婦觀る中年の彼ら<休め>のほそき脚彎(ま)げ   (塚本邦雄:日本人靈歌)

新潮社「波」10月号にゴリラの研究で有名な京大の山極壽一が書いていました。(言葉との新しい契約
かれがむかしの知己、といってもゴリラですが、20年ぶりに会ったときの話です。

 (ゴリラが昔のように遊び始めたのを見て)あっけに取られた私は、でもこれがゴリラにとって記憶を戻すということなんだと理解した。言葉を持たないゴリラは風景を切り取ったり、意味を与えたりしない。きっと記憶は何枚もの絵になって頭の中に収められているんだろう。その一枚が取り出されると、ゴリラはその絵の中に入り込んでしまう。それは(ゴリラの)タイタスのように、過去の時代に体ごと戻るということになる。
 人間でも、年老いると記憶の中の時間のつながりが薄れていく。言葉の意味があいまいになり、ゴリラのように言葉を介さずに風景だけが静止画のように出てくるようになる。タイタスは私という昔の仲間に会ったことを触媒にして昔の自分に戻った。言葉を放棄すれば、人間でも同じことが起こるのだ。


昨日の夢の

時間の流れがはやくなってきて、このままきっと滝から落ちるという気がします。
急いで年賀状の準備をしなくっちゃ。

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色気がないので、また回想の関宿を一枚だけ。
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昨夜見た夢は苦手な英語の試験でした。
答えを書く先から単語が消えていくのです。
消えないうちに文章を完成させようとあわてていると目が覚めました。
もっと楽しい夢を見たいなぁ。

 露知らぬ昨日の夢のわすれぐさ去る者の聲あきらけきかな    (塚本邦雄:摩多羅調)

どあ

ブログ開設以前の撮影で。いまならもっと撮れたでしょうに。

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LIXIL出版のサイト「10+1」の「交差する思考──建築・小説・映画・写真『中山英之|1/1000000000』刊行記念トーク」から「怒りと疑問」と題された部分の一部を引用します。
建築家中山英之と作家柴崎友香、編集者長島明夫の対談です。

中山 ・・・最近周りで起きている建築にまつわることで、すごく大きな出来事だと思うのが駅のホームドアなんです。
これまでは電車の年式によってドアの位置がまちまちだったので、ホームドアを設置するのがなかなか難しかった。それがだんだんと車両統一が進み、ついに新宿駅にもほとんどのホームにドアができました。駅員さんの立場になれば、事故は減るしあれほどありがたいものはない。そんなふうに環境をなるべく安全なものにしたり、みんなを暮らしやすくしたりすることは、建築の大事な仕事です。

新宿駅というのは、乗降者数が世界一なんですよね。ついこの前までは、あの金属製の四角い箱が、手すりも何もないただの段差に並んだ人混みのなかに数分おきに突っ込んで来るのが普通の光景だった。乗車率200%の人間が、ベルの合図ひとつでホームの人間と入れ替えを完了し、数十秒でこともなげに走り去っていくと、また同じだけの人数が階段から湧き出してきて整列する。それって、もしかしたら人類史上に残るような、圧倒的な出来事だったのではないかと今になって感じます。人間ってすごいなあと素直に思います。でも、それもホームドアができたらおしまいです。その代わりドアには、人間ってそんなものかとがっかりするような注意書きが貼られる。

これはいったいなんなのでしょう。誰も悪くないんです。こうすれば一歩ずつ世界がよくなるはずだと信じてドアは設計されるのだし、建築家の仕事というのは九割九分そういうものです。でも最後の一分のところで、建築は人を放り出さないといけないのではないか。ドアは人の命を守るものですが、同時に人間の何か大事なものを、すこしずつ殺すのではないか。シンプルな段差と短いベルで、自分たちには十分だ。建築家はときどき、そう言わなければならない瞬間があるのではないか。・・・


長く引用したのは最近の地下鉄であった傷害事件でドアが開かなかったことへの疑問からです。

ドアの歌を。”どあ”ってあるでしょ。
 酸素自動販賣器などありやなし因幡國氣高郡(けだかごほり)靑谷   (塚本邦雄:黄金律)

振り向けば

寒いのは歳をとった証明でしょうか。新しいことに着手したのに前進しません。トホホ!

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きのう引用した「やばい」の中の桃尻娘のくだりに、

 「桃尻」とはどんな意味か。桃の先(枝についている反対側)は、座りが悪いところから、馬の鞍への座り方が安定しないさまや、尻をもじもじさせ、落ち着きなく立ち去ろうとするさまをいう。

桃の実に女性のオケツのイメージを重ねていたpithecantroupusは、顔が赤らむほど恥ずかしと思いました。。
もっとも、そうした下品さは編集者にもあったようで、

 (1977年に登場した当時は)「桃尻娘」には「ピンクヒップガール」とルビが付けられている。これは、編集部が応募原稿に付けたようだが、橋本は気にくわなかったようだ。後で、削除している。

 桃源(たうげん)をかつて戀ヘリき沖さして早(はや)漕ぎ行かな振り向けば冬   (塚本邦雄:新歌枕東西百景)

やばい

回想で紅葉を、せめてもの紅葉。10むにゃむにゃ年前の紅葉。

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以前に下重暁子の「やばい」を書きましたが、左右社の連載「鯉なき池のゲンゴロウ その4」(重金敦之)に「やばい」のことが書いてありました。
川端康成「浅草紅団」から説き起こして橋本治「桃尻娘」へ、やばいの潮流をたどって、

 本来は、犯罪者の隠語だった言葉が、安定しバブル経済の兆候が見えてきた社会への抵抗から、若い人の間に、一種のカッコよさと共に用いられてきたと考えられる。

老人には隠語の記憶が残っているのです。


 ことばよりこゑにきずつくきぬぎぬの空や野梅(やばい)の蘂の銀泥   (塚本邦雄:されど遊星)

背をさすり

関宿なお。どんどん高度が下がっています。墜落寸前。

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昨日、穂村弘と町田康のお金の話を引用しましたが、その対談の終わり近くから、

 穂村:奥村晃作って歌人が作ってる短歌で、「イヌネコと蔑(なみ)して言ふがイヌネコは一生無所有の生を完(まつた)うす」っていうのがあって。つまり、犬や猫の生はお金とは無関係で、現在という時間だけに命を全投入している。
 確かに犬がめちゃくちゃ楽しみにしてたご飯を高速で食べちゃうのを見ると、もうちょっと味わえよって思いつつ、なんか負けた感が(笑)。
 町田:犬猫が今しかないとすると、人間には過去と未来があって、未来を欲するときは金を欲して、過去を欲するときは物語を欲する。物語と金に挟まれた現在を我々は生きてるというか。


と言ってました。pithecantroupusはガツガツ食べるからイヌネコに近いなあ。
回想ばかりしているのは、未来がないし、お金もないから、”物語”に拘泥しているのかも。

お金の歌を、
 霜月の古書肆『黄金伝説』の背をさすりつつありける女人   (塚本邦雄:花劇)

地にすれすれの

また回想の関宿で。

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歌人の穂村弘と作家の町田康がお金の話をしていて、穂村が、『衝動買いってなにかって言ったら、憧れを買うって感じなんです。』と、藤田嗣治の(印刷された絵の美術的には価値のない)年賀状に、『105年前のパリで藤田がこれを万年筆で書いて投函したって思ったとき、僕は「ぽわ~ん」ってなってしまった。』と3万円で買った話をしています。

町田は『その3万円は「ぽわ~ん」代なんですよ。』と言って、自転車を買った話をします。穂村は『それも一種の「ぽわ~ん」現象ですよね。自転車を買うことによって、それに乗ってるかっこいい自分の絵が浮かぶ。そこにお金を払ってしまう。』『自分が藤田嗣治みたいな存在になるのは大変だし、努力だけで行ける境地ではないでしょ。だけど買うだけなら、一瞬でそれが小さく実現できる。この絵葉書のにおいをくんくんすると、藤田的なものに接近できるというか。

さしずめpithecantroupusのカメラも”ぽわ~ん”代ですね。写真を撮っているのは”ぽわ~ん”現象ってか。すきな写真をクンクンするのも変態じゃなかったんだ。(でも女性のヌード写真をクンクンするのやめておこうっと。)

「ぽわ」~んの歌で、
 ポワンカレなどなにせむに栂尾(とがのを)の冬苺地にすれすれの實   (塚本邦雄:詩歌變)