いまさら何ぞ

つまらないと分かっていて無力感の写真。

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TVで柳家小三治(10代目)の番組をやっていたのでwikiで検索したら、

 永六輔が自らの主催するイベント「六輔その世界」のゲストに毒蝮三太夫と小三治を招き、両名に落語を演じてもらおうと企画した際、毒蝮は『湯屋番』を演じた。毒蝮は落語界の人間ではないが、7代目(自称5代目)立川談志の古くからの盟友であり、徹底的な指導を受けていた。その後に高座に上がった小三治は、直前までネタを決めていなかったが、毒蝮と同じ『湯屋番』を語り始めた。・・・演芸評論家・矢野誠一の著書『志ん生の右手』(河出文庫)では、この件を小三治自身が後書きで説明している。同じ噺をした理由は「毒蝮三太夫という人の後に落語家として噺をすることに抵抗があった」「毒蝮のやった噺とそれに対するお客さんの反応をみて、これは落語を聞かせる客じゃないな、ショウアップされた趣向を興味半分でのぞきに来てる客だな、と思った」ことであり、「せっぱつまった飛び降り自殺みたいなものです」「もう頼まれたって二度とやりませんが、ひとにも勧めません。それほど愚行です」と・・・。

pithecantroupusは永六輔のつくられたイメージが嫌いです。そのイメージに乗っている本人の姿も好きになれません。だから引用しました。

 國家の死いまさら何ぞ積藁の底の蝮の巣を凝視する   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

関は罐なのか

脳の退化中。なお関宿回想。

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関宿の関で機関車のうたと思ったら汽罐車でした。
 吾もすみやかに癒ゆ 幻の汽罐車を停めて火明(ほあか)りに鹽嘗(な)むる火夫   (塚本邦雄:日本人靈歌)

うなだれて

ご近所の亀山市関宿の10ムニャムニャ年前回想。どんどん後退中です。むかし転進と言った知恵者がいたなぁ。

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中島京子が書く『令和日本の敗戦』(田崎基 ちくま新書)書評『「この道」を行くのが、かくも不安である理由』の冒頭は、コロナ禍の社会を踏まえつつ、

わたしの不安の正体は、突き詰めると、「この国が信じられない」ということに尽きる。

と始まります。

 (本書を)読みながら、自分の不安の正体がわかった気がした。わたしたちは、あまりに何度も騙され、隠され、ごまかされているので、疫病以前に、信じられない病に罹患しているのだ。

以下、各章でだまされ続けてきた事実を重ねたうえで、

「この道」は「戦なき敗戦」だと、著者(田崎)は書く。それならば、わたし(中島)たちは「この道」からの離脱、「終戦」と「復興」を考えなければならないだろう。本書はそのときに「今度こそ何を間違えてはいけないのか」を教えてくれるはずだ。

と結んでいます。投票に行こうかな。


 うなだれて敗戰投手高頬のゆめ薔薇色となど言はざれど    (塚本邦雄:されど遊星)

よいよいの発想

きのうは回想の徳島でしたので、きょうは23日に続く回想の古川。どんどん退化中。悲しい!

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 發想の還らざるかなよひよひに群靑(ぐんじやう)の枯蓮を夢みて   (塚本邦雄:豹變)


しばしば引用するGQジャパン鈴木正文のエディターズ・レター「まづいはうまい、うまいはまづい」から、内田百閒の言葉を引用します。

毎日食べる近所の店のソバは、
「別にうまいも、まづいもない、ただ普通の盛りである」
「続けて食つてゐる内に、・・・日がたつに従つて、益(ますます)うまくなる様であつた。うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまいのである」。
出先で美味しいソバを勧められても、「そんなうまい蕎麦は、ふだんの盛りと味の違ふ点で、まづい。」


百閒のことばを引きつつ鈴木は『日常食の「まづさ」のうちに「うまさ」を積極的に発見していく百閒先生の、そのこころの向きに注目したい』と言います。

毎日の写真の「まづさ」も続けて食っていたら「うまく」なるのでしょうか。イワシの頭、イワシの頭。(笑)

眼に映りつつ悪

3日前の何撮った分らん写真は徳島で10ムニャムニャ年前撮りました。
windows11にともなう作業中ですが、ついでに過去写真も整理中です。
よくもこんな写真を撮っていたなぁと思いますが、今更恥をかいてもあとちょっとのことだし。ピンボケでもいいや。

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写真のことば」というインターネット上で忘れられたようなサイトに書いてありました。

 フィルムカメラという道具は
 目の前の景色や感情を
 シャッターひとつでのこしてくれます

(中略)
 デジタル的な記録でない
 人間の眼のなかの記録のような
 そんな写真の魅力を
 精一杯伝えたい・・・

(藤本智士)

そうなんだよ。デジタルカメラで撮っも、
たまった写真は何ギガのファイルじゃなくて、ましてコレクションでなくて、pithecantroupusの眼の記憶なんだよ。
だから過去写真の整理は前に進まない。

 きりぎりすその複眼に映りつつ惡魔なり 音樂を生(な)せしもの   (塚本邦雄:綠色研究)

唐がらし

むかしの写真もいまの写真も救い様のないものばかりです。
うきうきしてないからでしょうね。プチ家出したいけどそんな時間さえ自由になりません。とほほです。

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唐十郎が文化功労者だそうです。65歳の紫綬褒章は辞退したけど81歳の文化功労者を受けたのは、老化現象じゃないかなぁ、と思うpithecantroupus。でも80なんだから何でもOK。

wikiで経歴を確認してはじめて、横国の教授だったことを知りました。アングラの旗手が国立大教授になったとはびっくり。
定年後着いた近大教授の席は塚本邦雄もいたことがあったと感慨を覚えますが、塚本は学歴から言ってかなり飛躍があったのではないかと感じます。

”唐”で、
 防衛廳まへも通りて唐がらし賣りに來る眞紅(まくれなゐ)の眞實   (塚本邦雄:日本人靈歌)

くず箱

お通夜から帰って2枚だけアップ。だからゴミ箱の底から。

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dg elmarit 200mm 2.8
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s.nokton 29mm 0.8

 空港伊丹キオスク脇の屑籠に正體もなきイズベスチア   (塚本邦雄:魔王)

悪はしる

いろいろと悪戦苦闘中につき、何撮ってるの2枚だけです。

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 歌に浮かれゐるてふわれの惡名が奔らむ秋風よりも迅く   (塚本邦雄:黄金律)

親戚のひとりが亡くなったという電話が夕刻にありました。大往生と言ってよい歳でしたが、『名をなさず死ぬ歌びとを憐れ見て辛夷の花は夜ごと散るべし(米口實)』の記事がこころにかかりました。図書新聞のサイトにあった古い記事で、評者(阿木津英)の『「名をなす」ことへの欲望と卑屈と狷介と、捨て切れぬひとりの生』という言葉に亡き人のおもかげが浮かびました。

カンカン

昨日の学校に続き飛騨で。写真のポスターで撮影年が分かってしまいます。むかしむか~し、秋の古川で撮りました。

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lightroomもofficeもサブスクリプション。フロッピーディスクを知っている爺いには難しい話で、きょうは朝から二重契約の解消やアクチベートのやり直しで時間をとってしまいました。

 冬の堅果(けんくわ)のごとき老年われは欲りここに黑き繪のフレンチ・カンカン   (塚本邦雄:日本人靈歌)

秋さむし

コスモスで行き詰ったのでむかしむかしに戻って、多分、飛騨高山高校だったという記憶です。

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新しいことに臆病になってきて心配です。あと2、3年もしたら、変わることへの不安からタイムカプセルに入ってしまうかも。
だから許される限りで無理をしようとします。あと2、3年のことですから。
と言い訳して、windows11。ついでにlightroomもofficeもこっそり新調。

”新”で、
 新秋さむし戀の至極をしたためて引裂かむ白扇も有(も)たねば   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

のこりくらく

どんどん質が低下します。残渣ですから。

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m.zuiko 17mm 1.2
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s.nokton 29mm 0.8

 寒ゆふぐれ樂器店にて風琴のひとつ賣れ、殘りくらくひびかふ   (塚本邦雄:装飾樂句)

うちがはのいたまし

重箱の隅っこから。

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s.nokton 29mm 0.8
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s.nokton 29mm 0.8
ずっと気になっている言葉があります。
ノマド。仏語「ノマド(nomade)」は遊牧民のことだそうです。内田樹のサイトから引用します。

 パンデミックで、「ノマド的な生き方」をする人を最も高く評価するというこれまでの人事考課にはブレーキがかかるだろうと思います。
 それよりも、政策の優先課題は、日本列島から出られない人たちをどうやって食わせるか、この人たちの雇用をどう確保するか。どうやってこの人たちに健康で文化的な生活を保障するか、ということになります。これは池田内閣の時に大蔵官僚だった下村治の言葉です。日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本食しか食べられない、日本の宗教文化や生活文化の中にいないと「生きた心地がしない」という定住民が何千万といます。まずこの人たちの生活を保障する。完全雇用を実現する。それが国民経済という考え方です。
(内田樹「コロナ後の世界」より)

英語しゃべれなくてもいいんだ。(笑)

 脱出ねがふわれをおほひて洋傘(かうもり)のうちがはのいたましき骨組   (塚本邦雄:日本人靈歌)

いやはての

失敗した撮影の記憶が薄れて、恥もなくなってきたので、性懲りもなく。

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s.nokton 29mm 0.8
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s.nokton 29mm 0.8
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dg elmarit 200mm 2.8

分からない言葉は広辞苑だけにたよって、ネット社会に無関係な生活を送っている父は、テレビの言葉が分からないと言います。
もう2回も引用した、樋口直美「間の人 第13回 死語と記憶とビンテージ」からまた引用します。

 意味のわからないカタカナ言葉も増える一方だ。政策名でも経済用語でも英語を乱用する。私の80代の親は、このニュースを聞いても理解できないだろうなと思う。50代の私にも理解できない。理不尽だ。
(父は90代だから理解できないのも当然!)
 笑われないためには、どんどん新語を追いかけ、追いついていかなければいけない。でも、もう走れない。新しい単語を覚えるのは、とても難しいのだ。意味がわかっても、ニュアンスがよくわからないから使えない。結局、置いていかれる。

 異世代と一緒に生活していれば、そんな名前の変遷にも若者文化にも自然に触れるだろうが、還暦前後の2人で地味な生活を送っていると、家のなかは昭和のままだ。(pithecantroupsはとっくに還暦過ぎました!)
 紅白歌合戦で「今年流行りましたね〜!」と紹介される歌のどれもが初めて聴く歌だ。

著者の夫は、何十年も変わらず更新されない歌謡曲を歌い、いまや死語となった昭和の流行語が抜けないといいます。そうやってずるずると時代からずれた老人になっていくと。(見られていた!)

 永かりし昭和の不和のいやはての血しぶき まぼろしの百日紅(さるすべり)   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

手を握る

一昨日のショックも二日も経てば忘れてしまう、すばらしき老の世界!(笑)
pithecantroupusに落ち込んでいる時間はありません。

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m.zuiko 17mm 1.2
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m.zuiko 17mm 1.2

先日、倉田精二という名が出たので、彼が永続的・継続的に関係を持った最初で唯一のギャラリーだったと自負する禪フォトギャラリーというサイトの記事から。

 彼は異端者だったが異端者の天才であり、私たちが共に働いた最も純粋なアーティストであることを、最も厄介な人物であるにもかかわらず私たちは常に認めていた。

 私はかつて家での食事に彼を招待したことがある。 食事の後、私は彼を駅に案内した。 私の4歳の息子が倉田さんと一緒に歩き、彼の手を握った。 少し後、倉田さんは何十年も誰とも手を握っていなかったと言った。


引用するのは、忘れ易いpithecantroupusの記憶の代わりです。


 一握の韮淸水(せいすい)に放ちたりこの葷(くん)われの膏肓に入る   (塚本邦雄:汨羅變)

に遠ざかる

きのうのショックで意気消沈中のpithecantroupusです。
気分を変えて来年の年賀状の準備に着手しました。

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m.zuiko 60mm 2.8 macro

去年だったか今年の始めだったか、「年賀状を年末ではなく新年に届いてから出す」のはどうかとか、「年始状」とか書きましたが、なかなか決断できません。
年に一度年賀状だけでつながる縁も大事にしたいという気持があるのです。歳のせいだと分かってますよ。

 神無月霜つきかくて花ありし闇に無限に遠ざかるなれ   (塚本邦雄:星餐圖)

ふれたる気配

友人が”お昼ご飯ついでに写真”に誘ってくれましたが、久しぶりに持ったカメラに勘が働かず、被写体ブレの山を築いただけでした。(涙)

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s.nokton 29mm 0.8

武田砂鉄『日本の気配 増補版』を解説する作家中島京子『気配を勘繰らさせていただきます』(webちくま)はオリンピックから始まります。

 空気ではなく、気配なのだ、と著者は言う。(いまの)わたし(中島京子)は完璧にこの違いを知っている。
 だって、2021年5月の朝日新聞の世論調査では、中止か延期を希望する人が8割以上だったのだ。これは「空気」だろう。空気は「中止か延期」だったのだ。ところがなにかの「気配」を察したメディアが、そーっとゴールポストを動かした。「無観客か有観客か」が世論調査で問われるようになり、もう中止も延期も無理だ、議論すべきは観客の数だ、みたいな「空気」が作られていく。あの、え? と、なにかを二度見してしまうような感覚、二度見した目の先にあったもの、あれが「気配」だ。

 わたしはテレビをあまり見ないので、小池百合子のどこがいいのか、さっぱりわからない。わからないと、ずっと思っていた。でも、わかった。そうか、「テレビ活用」の達人なのか! (本書の)「小池百合子とラーメン屋とテレビクルー」で解説されるこの都知事像は説得力があった。小池百合子の思惑どおりに、テレビが彼女のイメージを「氾濫」させ続けるかぎり、彼女の権力は盤石だと思う。

 官邸のメディアへの介入、圧力も、本書が扱う大きなテーマのひとつだ。ここに、「勘繰れ」という言葉が出てきた。NHKが戦時性暴力を扱った番組をつくったときに、安倍晋三氏(当時の内閣官房副長官)が放送総局長を呼び出して言ったとされる、「ただでは済まないぞ。勘繰れ」というもの。相手が自発的に人の意向を汲んでアクションを起こすことを強要するニュアンスが、「勘繰れ」と「自粛(要請)」には共通する。もちろん「忖度」も。


 秋風首にふれたる氣配この朝のわが背後靈美男なりや   (塚本邦雄:不變律)

さいはてのてうさん

10むにゃむにゃ年前の伊勢山上で撮った写真はゴミの山でした。その下の方から引きずり出してきた写真で。

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webちくまの蓮實重彥「些事にこだわり」は以前に引用しましたが、連載の別の回の記事から。

 いったい、いつから「頑張れ」ば苦境を乗り切れるはずだなどと考えられてしまったのだろうか。そこには、「頑張れなかった」場合にはどうなるかという失敗例への考慮を欠いた、きわめて抽象的にして無責任なまでに楽天的な姿勢が見えかくれしている。

東日本大震災で「がんばろう日本」という標語が出てから、「がんばろう」という言葉への気持ちの悪さを言い出しにくくなりましたが、蓮實はさらっと言ってくれました。

 そもそも、「がんばろう」には、獲得すべき精緻な対象が何一つとして存在していない。・・・対象らしきものが見えぬわけではないが、それに失敗した場合、涙でも浮かべながら「頑張りました」といえばそれですむ問題でしかない。

がんばろうは情緒的で感傷的で日本的だと感じます。


 十月の空群青(ぐんじやう)に最終(さいはて)の朝餐(てうさん)として醋(す)の皿ありき   (塚本邦雄:星餐圖)

類の都に

伊勢山上の山里なお、です。いまならもっと撮り様があったと反省しきりです。とはいえ、「何撮ってるの」の類ではあります。

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何撮ってるのの”類”ですから、類で、
 蝶類の都に飛火した火事の因(もと)は迷宮入りかたつむり   (塚本邦雄:透明文法)

おもしろ

毎日追われているのは雑用なのか仕事なのか大事なのか主用なのか。

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Pithecantroupusが好きな倉田精二の写真を『いかがわしい写真』と書いていることにムッっとしつつ読んだ大山海「おもんない「個性」に回収されない人間の「中途半端」に出会う本 山田太一編『生きるかなしみ』」に、その『生きるかなしみ』(ちくま文庫)の冒頭「断念するということ」が引用されていました。

 〈大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか? 可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることなのではないだろうか?/私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?/本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要さない。〉

そのうえで、大山海は、

 つまりテレビ的な極端な言葉……夢も希望も絆も、ダメ人間も分かりやすい個性も、すぐに商業に回収されて消費されるゴミみたいなもんで。まったくかなしみなので、つくられた分かりやすい個性なんて「おもろな。木っ片」と一蹴してくれろ。人間の矛盾や中途半端や、金にならない分かりにくさを信じたい。

と書いていました。

 おとしめらるるほどの名あらば人の世はおもしろ白玉椿おもしろ   (塚本邦雄:黄金律)


以前に書いた池袋暴走について当事者のwikiが更新されていました。勲章の褫奪があったそうです。「褫奪(ちだつ)」という言葉を初めて知りました。この歳にして今更にです。知ったからと覚えるほどの単語でもないとpithecantroupusの脳が言ってます。

垂訓ののち

回想つづきで、三重県松阪市の山里へ行ったとさ。

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あるところでSNSの誹謗中傷を話題にした記事の中に、他者へのネガティブな感情が自らの脳にもダメージを与えると書いてあって、他人への不信感が強い人ほど認知症になると言われ、ビクッと冷汗をかきました。
すこし前に、そんな文章を書こうとして思いとどまったことを思い出したのです。

写真を撮った場所が”伊勢山上”とよばれるところなので、
 夜の山上にあり垂訓ののちのごと渇く 男らは天幕に充ち   (塚本邦雄:日本人靈歌)

のなかにけむる頭脳

半田の酢醸造場のつぎは明治末に建てられた洋風建築で。10むにゃむにゃ年前は喫茶店でした。

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 戀くらくわがまなうらにきざせると紅茶のなかにけむる牛乳   (塚本邦雄:透明文法)

かなしみしたたる

半田の有名な酢醸造場あたりへ行った頃に雨が降っていたようです。記憶に頼るのはやめようっと。

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若者の雨衣の脊すぢの垂直の黑いきいきとかなしみしたたる   (塚本邦雄:綠色研究)


会う毎に、どこまでが本当でどこからが空想か、むかし話する父を見ながら、

もともと鶴見俊輔は、みずからいう「誤解する権利」を最後まで捨てずに生きた人なのだ。まちがいなくして発見なし。そういいきる確信的な「まちがい主義者」でもあった。とすれば誤読OK、もしそれがもうろく老人の誤読であればなおさら。そう考えていたとしてもふしぎはないと私などは思う・・・津野海太郎「わたしはもうじき読めなくなる」

天馬のあたり

年齢をいやというほど感じさせられました。昨日、母校の周年式典をころりと忘れていました。
反省の意味を込めて、昨日配られた記念品を写真に撮って、あやうい頭に刻みました。

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m.zuiko 30mm 3.5 macro
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m.zuiko 30mm 3.5 macro

 椿本園芸開店五周年 巨勢山(こせやま)もまどろみつつあるころか   (塚本邦雄:風雅)

記念品は母校出身者でH19年文化勲章の中村晋也「天翔(あまかける)」だそうです。

 小豆粥冷えわたりけりみぞるるは神州天馬峽のあたりか   (塚本邦雄:詩歌變)

新聞に水

きのうのゴンのつづきで。

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記憶力が怪しくなったpithecantroupusの備忘録として引用します。

後藤 さらに、今回は大手新聞社が大会スポンサーになりました。
坂上 これで日本も終わりだなと思いました。東京オリンピックへの批判がタブーとなってしまうと思ったからです。これはただの被害妄想かもしれませんが、・・・東京オリンピックのイメージを悪くするような事実や批判的な報道がほとんどなされなくなったように思います。
 こうした報道の実情に関する検証も、今後、きちんとやらなくてはならないですね。・・・
(ジャーナリスト・後藤逸郎「亡国の東京オリンピック」文藝春秋社より坂上康博一橋大学大学院教授へのインタビューの一節)

 妻の愛あまねき朝(あした)食卓の新聞に水死者の生ける貌   (塚本邦雄:驟雨修辭學)

ごんの死の

10ムニャムニャ年前の秋は半田にも行ったようですが、ヒガンバナはまだ咲いていなかったみたいです。
ゆかりの新美南吉の家で。

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南吉なので「ゴン」で、
 君よ知るや南の國に天使魚の紫磨金(しまごん)の死の鰭すれちがふ   (塚本邦雄:黄冠集)

我事にあらず

残りものを集めてといっても、10ムニャムニャ年前の写真ですが。

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もう忘れ去られてしまったようですが、反省しないpithecantroupusになりたくないので。

 その中(開高健『ずばり東京』(光文社文庫))で、開高は1964年の東京オリンピックについて書いている。「チューインガムじみた感傷的ヒューマニズムと浅薄きわまる愛国心とポン引じみた国際愛の氾濫したこの二週間の花見踊り」。開高のオリンピック評はかなり手厳しい。彼は、さまざまな矛盾を力業で押し流すように行われる国家的行事に「田舎者くさい虚栄」と空虚さをみて、日本は自分たちが思っているような大国などではないと嘆いている。
 開会式見物で終わるこの最後の文章は「サヨナラ・トウキョウ」と題されている。そこで開高は、高層ビルや地下鉄工事などオリンピック関係の工事で亡くなった人の数を記している。「三百三人」。病人、負傷者の数も忘れていない。「合計千七百五十五人」。・・・
 そしてこの約60年前の文章を読むたびに、・・・安倍前総理の東日本大震災の「復興」と汚染水の「アンダーコントロール」発言、そして菅総理の「世界の団結の象徴」「国民の命と健康を守る」という言葉を思い出さずにはいられない。
奥 憲介『空虚な祝祭、空疎な言葉~東京2020オリンピックを総括する』 imidas オピニオン

こんな書き出しで始まった文は最後の方で、『真にグロテスクであるのは、空疎な言葉を操ってしたり顔をする政治家でも、金としがらみにまみれた組織でもなく、自らの現実を圧殺する言葉を投げかけられても、我事にあらずと微動だにしない私たち自身の姿であり、自らの生に対する無責任な非当事者性である。』とありました。

 麝香葡萄(マスカット)たまはるやその不吉なる重み、東京という大田舎(おほゐなか)   (塚本邦雄:黄金律)

やるせなさ

きょうは歯医者の日です。行きたくなかったけど”勇気”をふるって行ってきました。エライっ!(笑)

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先日、「断念」云々を引用したとき、こちらも気になっていました。(立ち読み:『意志薄弱の文学史――日本現代文学の起源』(坂口 周 著)文学的人間の生存戦略

 どんなに硬派を気取っても、文学にたずさわる者は皆、ロマンチストです。ダメ人間です。ロマンチックな心は、断念から生まれます。広くは政治活動の挫折から、狭くは恋愛の失敗から、つまり無力感が人を文学的にするのです。

 志のために死を実行できる人は稀です。だから、厭世の思いに打ちのめされる前に、先手を打って心の〈弱さ〉を文学的に正当化する方向が見出されたのは当然なのです。文学的人間の生存戦略――それが「意志薄弱」であることを理論的に肯定する道でした。

 社会不適合のはずの者が、いずれ最も社会に適合した未来の人間の姿に似るのです。


「ロマンチックな心は、断念から生まれます」かぁ。pithecantroupusはロマンチストだ。
「無力感が人を文学的にする」かぁ。pithecantroupusにとって写真が文学の代わりかな。

 ある夏の小麥の飢饉、そのやるせなさ唄ふアルト歌手のロマンス   (塚本邦雄:水葬物語)

口しびれつつ

10ムニャムニャ年前の写真は、目的のヒガンバナでないものばかりです。三つ子の魂百まで。

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ゆうべ見た夢に祖父が出てきました。30年以上前に亡くなって、生前でさえ夢に出てくることはなかったのにです。
食事中でした。「おれはこの”おろし大根”が好きでな。細かいのでなくザックリおろしたのがいいんだ」と言って笑ったので、「ああ”おろし金”でおろさずに包丁でどうにかするか」と思ったのでした。

あとで考えると、「おろし大根」なんて言い方はpithecantroupusはしません。「大根おろし」です。
前にも引用したNHK放送文化研究所にかいてありました。


Q 「おろし大根」と「大根おろし」、どちらを使ったらよいのでしょうか。
A どちらを使っても差し支えありません。ただし現代では、比較的若い年代では「大根おろし」のみを使うという人が多いようです。


そこに示されたデータでは、20代は 「おろし大根」13%、「大根おろし」87%ですが、60代以上では、 「おろし大根」37%、「大根おろし」61%だそうです。
生きていれば120歳ぐらいになっている祖父ですから、「おろし大根」はごく自然でした。
でも、最近料理番組見たわけでなし、料理本は見ないし、大根おろしも食べてないし、夢に出てきたわけが分かりません。

 夏大根に家中(いへぢゆう)の口しびれつつ今日終る 國歌うたはず久し   (塚本邦雄:日本人靈歌)

10ムニャムニャ年前の写真を見ていると、当時の気象が気になって調べなおしたりします。
この年は8月が記録的猛暑で、9月も暑かったらしいです。

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柳美里を少し前に引用したので、今度は「第65回岸田國士戯曲賞に寄せて」という文から引用します。
柳は同賞の選考委員を最近辞職しましたが、その顛末を書いています。その最後の部分を。

 演劇にとってはかなり厳しい(新型コロナウイルスの)これらの制限を逆手にとって創造に転回することは、戯曲という文学の器の中では可能だと思う。・・・なんの不自由も不足も禍もない平穏な状況の中から流れ出る言葉よりも、挫折と断念の危機と窮迫の中から立ち上がる無謀な言葉にこそ、文学は宿ると信じ、わたしはそういう岸田國士戯曲賞の候補作を待望している。

”断念“という言葉は重いなぁ。いま終末を迎えようとしている親を見ているとそう思います。


 わが出でし後の眞夏の劇場に椿姫咳きつづけて死なむ   (塚本邦雄:驟雨修辭學)

世のわれは

夜7時から野暮用でした。世間の付き合いも重労働ですが、歳をとって、付き合いの価値も少しは認めるようになったので。
でも写真は相変わらずアマノジャク。

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 またの世のわれはマフィアに身をゆだね萩の上月のひかり澱む   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

どこで生きている

なお夢の中。記憶の中。

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 曼珠沙華わが來し方に咲き退(すさ)りすぐそこのくらやみに敗戰忌   (塚本邦雄:汨羅變)

前に引用した太宰治の「フォスフォレッスセンス」は、夢と現実を行き来する小説家の話です。夢でフォスフォレッスセンスという知らない花を見て、現実で見た花の名を尋ねられて「Phosphorescence」と答えて小説は終わります。夢と現実が錯綜して、読み進めるとどこが夢でどこが現実か分からなくなりますが、小説の初めの方にちゃんと断り書きがでてきます。

 世の現実家、夢想家の区別も、このように錯雑しているものの如くに、此頃、私には思われてならぬ。
 私は、この世の中に生きている。しかし、それは、私のほんの一部分でしか無いのだ。同様に、君も、またあのひとも、その大部分を、他のひとには全然わからぬところで生きているに違いないのだ。


最近のpithecantroupusの頭の中とおんなじです。