羞し

きのう写真を撮ったのは2年前に行った場所です。
同じような写真を撮らないように気をつけてはいるのですが、記憶力がなにしろ怪しいpithecantroupusですから。

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7artisans 35mm f0.95
35mmフルサイズ換算で70mmのレンズを初めて使ったので、きのうはその感覚に慣れる練習も兼ねていました。66判の135mmに近くて使いやすい焦点距離でした。レンズの見た目はチープですが。2年前の写真をバックに記念撮影。

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m.zuiko 30mm f3.5 macro
写真家の立木義浩が、「生きていくことの基本は含羞だから。」(T JAPAN)と言ったので、彼が好きになりました。
別のところで、「明治、大正、昭和の初めの骨のある人はさ、大抵みんな恥ずかしがりやで、人生にハニカんでた。カメラ向けると愚直に「どうにでもしろ」みたいなさ。」(Oceans 15th)とも言ってました。

 檸檬(レモン)割いて唾あふるるを羞(やさ)しめりこの友わが手もて殺さずば   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

あやふき蓮

先月末にハナショウブを撮って以来の”ついでに写真”でハスを撮りました。

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7artisans 35mm f0.95
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7artisans 35mm f0.95
 死とひきかへに今日若者の何宥す水奔りかなたあやふき蓮(はちす)   (塚本邦雄:蒼鬱境)

われにかへ

きのうは昔写真へのお口直しにゴミ写真をあげて、お口直しになっていなかった反省をこめて、
きょうはゴミ写真のお口直しを昔写真で。(サル扱いして朝三暮四か!)

どう見てもゴミ。
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m.zuiko 60mm f2.8 macro
お口直しに昔写真を。昨日、一昨日とおなじく五箇荘で撮りました。

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おまけは、ムービーにした今年のハナショウブ写真で遊んでみました。

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m.zuiko 30mm f3.5 macro

写美の篠山紀信「新・晴れた日に」展のインタビュー記事で篠山が言ってました。

 いい写真だねって言われる写真は暗い。写真って基本暗いんですよ、きっと。

pithecantroupusの写真も暗いけど、いいは暗くても暗いがいいとは限らないのだろうなあ。

”暗”で、
 梅雨の靴ふくれあがりて暗がりに臭ふ〽戀人よわれにかへ***るな   (塚本邦雄:日本人靈歌)

夏至の夜の

不得意科目の花写真ばかり続いているので、昔写真で、動物系と何撮ってるの写真を。

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むかし写真のお口直しに、今日とれたての写真も一枚。
庭の片隅に溜まった落葉だから、植物系だけどお花写真じゃない。
誰だっ! ゴミ写真って言ってるのは!

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m.zuiko 60mm f2.8 macro
前にみうら・じゅんのインタビューを引用しましたが、本人が書いているものがあったので、

 スクラップを続けていると、自分自身を知ることにもなります。「この娘いいなあ」とグラビアを眺めるだけでなく、切って、貼るという作業をやると「ほんとにこの娘が好きなのか?」とか「ここがこうなっていたほうがもっとグッときたのに」とか、「もう少しローアングルで撮ってほしい」「露出はもっとアンダーのほうがいい」と思い始めます。
 そうやって自分の性癖のようなものを突き詰めていくと、今まで漠然と言ってきた「好き」の底の浅さを痛感させられると同時に、自分がほんとうに伝えたいエロの世界観が見えてくるんです。自分のフィルターを通すことで、他人が構成したものには「なかった世界観」が際立ってくるわけですね。
みうらじゅん「スクラップ・ブックで鍛える情報編集力」  president online)

「好き」の底の浅さを痛感するところまでいかないと本当に伝えたいものが見えてこないのかぁ。pithecantroupusはまだまだだなぁ。


”すき”の歌で、
 スキャンダルめきて次男の大食が傳はる夏至の夜のサヴァティーニ   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

から・から・から・から

あちこちとアジサイの写真を見つけて、うらやましくなったpithecantroupusも13年前の写真を掘り出してきました。
ほぼ化石ですから、こまかいことは言わずにお願いします。

まぁ~るく撮ってごまかし。
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以前にもブログにアップしたような。
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アジサイでないのも一枚入れて目くらまし。
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3枚とも13年前の一日、塚本邦雄の生地、五個荘で撮りました。

 から・から・から・からの夏天にアメリカの薔薇類轢(ひ)きてゆく跛馬(びつこうま)   (塚本邦雄:水葬物語)

疲れて夢む

おとなりのザクロの花の盗み撮りで、

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7artisans 35mm f0.95
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m.zuiko 60mm f2.8 macro
素直な(?)一枚も。

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m.zuiko 60mm f2.8 macro

以前に引用した「狂ったピアノがいう。逃げろ、と。」(鈴木正文)の別の部分から、

(稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾の「新しい地図」の動画にテロップが重なっていう。)
 「逃げよう」と。
 「自分を縛りつけるものから」逃げよう、と。
(坂本龍一が弾いた)被災地のピアノはじぶんでは逃げられなかったが、津波に助けられて逃げて、自分の音を取り戻した。・・・


逃げたいなあ。逃げ出したいなあ。逃げたら自分の音を取り戻すどころか全て失ってしまわないか怖くて逃げられないけど。やっぱり臆病者だなあ。

 疲れて夢む 銅貨入れれば胴顫ひして鳴る舊き映畫のピアノ   (塚本邦雄:装飾樂句)

すれちがう


ショウブの写真がいっぱいあったので、残りものも入れてムービーに。
埋め込んだムービーが動かないと思うので、
 こちらから見てください。



動かないのをサンプル代わりにペタッ。

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s.nokton 29mm 0.80
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om zuiko 50mm 1.4
 菖蒲村字走水(しやうぶむらあざはしりみづ)水中にみどりごとちちははがすれちがふ   (塚本邦雄:天變の書)

六月のぐら

きのうの写真のモノクロ版です。きょうは少し雑草取りをしました。10分ぐらい。(笑)

庭のグラジオラスは一本だけだったし、それを位置がわるいからと切り取ってアジサイの花の中へ挿してしまったので、きょうはカメラの出番はなしです。

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m.zuiko 30mm f3.5 macro
グラジオラスの歌を見つけ損ねて、”ぐら”で、
 なんぢ憎めりしもはるけく六月の眞晝くらぐらとくれなゐの鯉   (塚本邦雄:風雅)

罵詈雑言(ばりぞうごん)

庭の雑草が伸び放題になっているので何とかしなくてはとカマを持ち出し、一本だけのグラジオラスを見つけ、カメラに持ち換えて草はそのまま。

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m.zuiko 30mm f3.5 macro
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om.zuiko 50mm 1.4
”蔓延防止等重点措置”という言葉は画数の多い漢字を重ねて、見るからにゴシック!

ときどき引用する穂村弘のコラムに、小学生男子のグループとすれ違いざまに耳に入った会話が紹介されていました。
「一日に三度しゃべれば友だちさ」
「俳句だな」

たしかに”いちにちに さんどしゃべれば ともだちさ”は五七五。
さらに穂村は妄想をふくらませて、

 街角の小学生は定型で語り、「俳句だな」「もちろんさ」と讃え合っている。そして、若い恋人たちは恥じらいながらお気に入りの季語を教え合う。
 「好きな季語はね……」
 「うん。何?」
 「……『童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日』」
 俳句形式そのものよりも長い掟破りの季語を告げられて感極まる青年の可憐さよ。どうていせいまりあむげんざいのおんやどりのいわいび。二人の未来に幸あれ。


この感覚好きです。

ハイクじゃないけど似てるから、
 バイク馭してこの罵詈野郎、哲學に別れこのごろ何に執する   (塚本邦雄:汨羅變)

写さむと

のこり物でお茶を濁してます。

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dg elmarit 200mm/f2.8
先日大西みつぐを引用しましたが、同じサイトでpithecantroupusが尊敬する植田正治のことも書いていました(写真する幸せ / 植田正治に学ぶ)。メモをするかわりに引用します。

・・・そこには風土への愛情と誇りがあるのはもちろんだが、写真機という魔法の箱を子どもが手に携えているような趣も感じられる。いかに写すかでなく、どう写るのだろうか? そうした好奇心はなにもフイルムで可能、デジタルでは不可能ということでもないはずだ。それはすべからく心の反応に関わる。光や影やモノの形態や、人の愛おしいまでの美しさ。そうした被写体に寄せる水々しい心を私たちは失ってはいけないということなのだろう。

写すのではなく写ることをワクワクしながらシャッターを押している。才能がなくても、ワクワクは見習いたいなぁ。
大西は『昨今の広角系のズームレンズでなんでもかんでもぐっと踏み込んで撮ってしまうというパターンとはほど遠いレンズワークが生かされているように思える。』とも言ってますが、カメラとレンズの制限が大きかった時代に身につけたカメラワークにもあこがれます。


 罌粟枯るるきりぎしのやみ綺語驅つていかなる生を寫さむとせし   (塚本邦雄:天變の書)

聖神無月

マミヤプロフェッショナルの交換レンズで。

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dg elmarit 200mm/f2.8
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dg elmarit 200mm/f2.8
 こころなきわが繪の水にナザレ人(びと)イエス溺るる聖神無月   (塚本邦雄:されど遊星)

百の一

雨降るとなりの庭にアゲハを見つけたので、お留守をいいことに、柵越しに撮りました。

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dg elmarit 200mm/f2.8
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dg elmarit 200mm/f2.8
年寄りの三種の神器は「説教、自慢話、愚痴」だと、昨日の記事であやうく証明するところでした。

土曜朝に毎週見ていた『サワコの朝』が終了して楽しみが一つなくなりましたが、ヘタなインタビューだなあと思っていたら、本人がそのことを書いていました。

 本質的な問題は、番組終了直前に発覚した。
 ゲストにゲッターズ飯田さんをお招きしたときである。お笑い芸人でありながら、占い師としても有名だと聞いて、番組内で私を占っていただくことになった。その結果、ゲッターズさんは清々しく言い放ったのだ。
 「アガワさん、聞く力、ないですよ。人の話を聞くより、むしろ自分がお喋りするほうが得意でしょう」
婦人公論.jp 「見上げれば三日月」

ゲストがよくしゃべる人だといいのだけれど、寡黙な人ではトークになっていなかったものなぁ。半分はゲストが座るイスに興味があって見てました。

同じ連載の最新記事は、“悪友”で教育癖があるダンフミに、「あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」の意味を問われて、

 「深く会ってセックスをしてみたら、そのあと『なんて気持いいんでしょう!』って感動して、その心地よさに比べたら、これまではこんな気持のいいこと、なあんにも知らなかったわっていう歓喜の歌?」
 答えた瞬間、ダンフミは椅子から転げ落ち、「あんたって、下品!」


下品な人大好きです。(笑)


”百人一首”の代わりに、
 星昏るる未知の男ら百人の一人眞紅の鹽のごとあれ   (塚本邦雄:星餐圖)

青ひげの裔

「写真集を編む」(別冊太陽)に紹介された名作写真集100選の中で、あっ、これ持ってる! とうれしくなって記念写真をパシャ。
オリンパスの新しいデジカメよりもこのEEDのほうがずっといいデザインだと思うけどなぁ。

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m.zuiko 30mm f3.5 macro
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m.zuiko 30mm f3.5 macro
ときどき引用する内田樹が、コロナ禍で、『本来、学校の最もたいせつな仕事は子どもたちひとりひとりを個体識別して、ひとりひとりに向かって「君はここにいていいんだ。ここが君の場所だ」と確信させてあげることです。子どもたちを社会的に承認することです。でもいまはそれができなくなっている。』と言っているのに首肯しました。でも、もっと惹かれたのは、

80年代には、窓ガラスを割る、バイクで廊下を走る、教師を殴るという光景が日本中の中高で見られた。

コロ ナが襲ってきて一斉休校になった。また授業についていけなくなった。でも、バイクで暴走するとか、ワル同士で「テッペン」をめざして殴り合うというような 伝統はもう途絶してしまった。社会に対して暴力的な仕方で「オレを認めろ」と承認を迫るノウハウを今の高校生たちは知らない。GQジャパン 内田樹の凱風時事問答舘

というくだりでした。かつてのノウハウを忘れたのは彼等ばかりではないけどなぁ。


 オートバイの群は驅け去る麤皮(あらかは)の襟ひややけき靑鬚のすゑ   (塚本邦雄:綠色研究)

生き残り

きょうもなお、よく似た写真があっても堪忍、堪忍。年寄りは大事にしましょう。

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s.nokton 29mm 0.80
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dg elmarit 200mm/f2.8
 葬送の汗の杉の香惡友の一人あやしく生き殘りける   (塚本邦雄:閑雅空間)

記憶の中

残りものの季節です。
よく似た写真があったぞ、といわれてもpithecantroupusの記憶中枢は消費期限を超えてますから保障されません。

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dg elmarit 200mm/f2.8
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dg elmarit 200mm/f2.8
02-LR-M5319719-Edit-3-.jpg
dg elmarit 200mm/f2.8
記憶が間違っているのではないかと思うと途端に不安になります。

前に一度引用した弦書房のコラムににあった「おらア、三太だ」の思い出」(前山光則)で、『おらぁ、三太だ』がラジオドラマだったと言われた途端に不安になります。(よく読むとpithecantroupusが生まれる前の話でした。)

検索したら、フジテレビが1961年にドラマ「三太物語」を放送していました。
三太役の渡辺篤史を覚えています。pithecantroupusの記憶はまだ大丈夫でした。でも昨日のことは覚えてない。

 記憶の中の死者、生者より冱えざえと笑ふ腸(はらわた)のごときマカロニ   (塚本邦雄:水銀傳説)

時代は過ぎ

きのうの別冊太陽「写真集を編む」つながりで、本の上にペンをおいてパシャ!

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m.zuiko 30mm f3.5 macro
02-LR-PF150179-Edit-3-.jpg
m.zuiko 30mm f3.5 macro
pihcantroupusは活字の使徒です。

説得力のある評論もいくつか書いている写真家大西みつぐが”日本カメラ”休刊のことを書いていました。(『「日本カメラ」休刊の報に接し』)
彼は、一年前のアサヒカメラの休刊とも重なり、単に雑誌がなくなるということにとどまらず、日本の「写真の現在」が途端に希薄なものになっていくような不安も感じると言いつつ、

大げさにいえば、日本における「写真」という出来事ないしは「行い」の基盤が揺らいできているのではないかと思えます。少なくとも「写真」に関わる全ての人たちにとっての「転換期」であることに間違いはないでしょう。何かしらの考え方を変えていくことも必要かもしれません。

と書いたうえで、『写真をカメラで撮ること、見ることと写すこと、写真を飾ること、写真で飾ること、写真で時代を綴ること、写真に夢をどのように託していくこのか、写真と共にいかに生きていくのか。』について考える契機ととらえつつ、その方向性については無言です。

時代で引用して、
 水煮つつ半身おぼろなる母よ夏よ青銅時代は過ぎし   (塚本邦雄:感幻樂)

本に挟み

標準レンズで撮った、もうちょっと長いレンズだったらという、むかしむかし50mmしか持ってなかったころを思い出す写真。
あのころは何でも撮りたかったなあ。

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s.nokton 29mm 0.80
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s.nokton 29mm 0.80
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s.nokton 29mm 0.80
別冊太陽「写真集を編む」を勧めてくれた知人がいて、パラパラとめくっていたら、持っていないけど欲しかった本が次々と出てきます。展覧会でオリジナルに接する機会が少ない田舎者ですから、写真集は貴重な情報源でした。

 蜉蝣(かげろふ)を本に挟みて箔となす今日みなづきの盡くるたそがれ   (塚本邦雄:新月祭)

しづかなる重さ

手入れのわるい庭を多重露光でごまかして。ずるいぞpithecantroupus!

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7artisans 35mm f0.95
 一人(いちにん)の人閒の罪科(つみ)しづかなる重さもち紫陽花が剪られつ   (塚本邦雄:日本人靈歌)


日本人霊歌の歌はつい戦争や天皇制とつなげて読んでしまいます。頭がどんどん固くなっている証拠にちがいありません。おろかなpithecantroupus。

たよりとどかむこよひ

柘榴もおとなりの庭に。
去年は実ったのを見過ごしてしまったので、今年こそ時期を外さずに盗人する決意です。

 柘榴の花も過ぎにけらしな絶縁のたよりとどかむこよひの疾風(はやて)   (塚本邦雄:新月祭)

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7artisans 35mm f0.95
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7artisans 35mm f0.95
前にも同じような写真があったってか? いや、レンズが新しいんです。七工匠の35mm F0.95。


大西みつぐも「鬼海弘雄さんの写真」を書いていたので一部を引用します。(コロナ禍とスナップショット

 まだ「コロナ」のニュースが遠い中国武漢の話でしかないように思われていた時期の少し前、・・・歳末から新年にかけて東京の街を何日か撮り歩いた。その折に撮った写真を今見ると、わずか1年ちょっと前とは思えないほどの「むかし感」がある。マスクを付けていないことの違和感というよりも、「人はこうしてマスクをせずに歩いていたのだ」という遥か昔の時代の記憶のように感慨深いものが押し寄せてくるのだ。・・・

 今、
(鬼海が『ペルソナ』を撮った)その浅草寺の境内にやってくる鬼海さんが撮りたくなるような人々はかつてに比べ少なくなってしまった。・・・もし今、鬼海さんが浅草寺にいたら、そんな状態で(『ペルソナ』を撮ったときのように)赤い壁の前に立ってもらうということはしないだろうという、私なりの確信がある。コロナ禍のずっと前に鬼海さんが「最終章」としたのは、浅草の変化によるものもあったはず。さらに昨年から風景は一変してしまったのだから。「そこに個性はないよ!」と鬼海さんが呟きそう。

ころなきわ

きょうは雑草です。
手入れをしていない庭にはびこっている草と手入れをしないので野生に戻ったバラの花。
きれいな他所の庭の前を通るたびに恥ずかしいなあ、という羞恥心は残ってますよ。

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7artisans 35mm f0.95
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7artisans 35mm f0.95
本日ワクチン一回目でした。5月中の接種予定を家族の都合でキャンセルして延び延びになってました。
接種の副反応は若い人ほど出るそうなので、pithecantroupusには無関係です。
ちょっとぐらい熱が出たらうれしかったなあ。

季節外れですが、「ころな」だから、
 こころなきわが繪の水にナザレ人(びと)イエス溺るる聖神無月   (塚本邦雄:されど遊星)

無用の

またふる~い写真を持ち出して、むかしはものを思わざりけり、です。

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いかにもありがちないちまいも、反省をこめてペタッ。

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これまで二度も引用したアンドレ・コント=スポンヴィルの文ですが、その冒頭は次のように始まっていました。

 みなさんにお伝えしたいことが二つあります。良い知らせと悪い知らせです。悪いほうは、私たちは全員死んでゆくということです。良いほうは、私たちの大半がやがて死んでゆくにしても、その原因はコロナウイルスとは別のものだということです。

 モンテーニュが、『エセー』のなかでこう書いていました。「病気にかかったから死ぬのではない、生きているから死ぬのだ」。自分たちが死すべき者であることにもっと頻繁に思いを巡らすようになれば、私たちはますます生を愛することでしょう。つまり、生が脆く、短く、時間的にかぎられていることに思いいたり、だからこそ生は貴重なのだと気づくようになるでしょう。だからこそ、伝染病は、逆にこれまで以上に生を愛するよう私たちを促してくれるはずです。


伝染病に限ったことではなさそうです。自分は死すべき者と思えば、たとえダメ写真でも撮れるだけで幸せかも。

 無用ノ介の明眸ひとつ 星月夜にはかにかきくもり梅雨(つゆ)至る   (塚本邦雄:風雅黙示録)

その日をていか

のこりものだけど、標準レンズで撮った思い入れのある写真を一枚だけです。

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s.nokton 29mm 0.80
きのう「紅旗征戎わがことに非ず」を引用したので、弦書房という出版社のサイトの「昭和の子」というコラムの一節から、

「紅旗征戎わがことに非ず」とおもえど、昨年は〝戦後民主主義〟世代のわが身が傷つけられたように思われ、ことのほか腹ふくるること多き年でありました。

と、コラム著者の今年(2016年)の賀状の書きだしから始まり、かの言葉が入っている堀田善衛の『定家明月記私抄』の読後感にうつり、最後は、

 堀田と同世代の土山秀夫(元長崎大学学長、世界平和アピール七人委員会委員)の賀状には「この4月で91になります。体力の続く限り、安保法制の廃止を目指して頑張るつもりです。それが戦争体験者の務めでしょうから」とあった。
「紅旗征戎わがことに非ず」と思えども、徹しきれぬわたしは、沈香も焚かずデモにも行かず、今年もあれこれ思い悩む年になりそうである。


と結んでいました。
塚本邦雄や吉本隆明、鶴見俊輔など戦争に青春を費やされた人たちのことが気になるのです。かれらは父と同世代です。

 敢へて生きば強ひて歌はむ敗戰のその日を定家葛(ていかかづら)の花を   (塚本邦雄:汨羅變)

を事とす

昨日と一昨日の写真を、カラーはモノクロにモノクロはカラーに。
これは二番煎じ、いやいやダシガラです。ダメpithecantroupus。

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m.zuiko 30mm f3.5 macro
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dg elmarit 200mm/f2.8
橋本治が気になってきました。加藤典洋が「大きな字で書くこと」のなかで、学生時代に、橋本が国際反戦デーのデモ隊を横目に映画館の開館を待っていた話を知人から聞いて、

 話を聞いていて、咄嗟に浮かんだのは、「紅旗征戎吾が事に非ず」という約八〇〇年前の藤原定家の日記のことば。定家もそのとき、一九歳くらいだった。

と書いてました。橋本治はpithecantroupusよりも少し年上。かれが死んだ年齢に達してみて気になるのです。

 雪いまだ触れざるはがねいろの地(つち) 紅旗征戎をきみは事とす   (塚本邦雄:蒼鬱境)

あじさいの心(しん)

ショウブの写真をえんえんと続けているのに、ときどき悪い虫がおきてしまいます。
気温が上がって、雑草が伸びて、玄関から3分で撮るのも一苦労。

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m.zuiko 30mm f3.5 macro
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nokton 60mm 0.95
”きれい”でないとは分かるけれど、美的感覚がアウトフォーカスしたpithecantroupusにはピッタリ!


 なまぐさきもの満ち百の花きざすあぢさゐの心電圖を撮れ   (塚本邦雄:綠色研究)

死者よび出さむ

なんとかは七難隠すというのでモノクロで白くして。

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s.nokton 29m 0.80
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dg elmarit 200mm/f2.8
大塚英志をもう何度目か引用します。(じんぶん堂「コロナ禍でも利用される「暮し」への祈りと工夫 大塚英志が見る、戦時下の生活との共通点とは」)

 戦時下で生まれた暮らしの形は、コロナ禍の現代と符合する。私たちはコロナ禍で不自由な生活を強いられている。だが「自粛」という言葉は、自らステイホームや休業を選択しているような気配を漂わせる。
 ・・・「家にいる時間が長くなったから、環境を快適にしたい」「仕事を家でしやすくして、日々のストレスを軽減したい」という思いは一人ひとりの生活の工夫であり、ウェルビーイングに寄与する。しかしその暮らしの変化は全く自由意志ではない。


日々の違和感は、この『自由意志から来ていない』ことに由来しているのかもしれません。
これも以前に引用しましたが、そことは別の部分から、遠隔通信(テレビ会議システム)に言及している部分。(美術手帖 さわらぎ・のい「パンデミック下の独り言とその空虚。」)

・・・たとえ必要な意思疎通こそ図られても、モニターを前にイヤフォンを装着し、誰もいない部屋で一生懸命しゃべり続ける姿が、ひとたび俯瞰(内省)すれば、大変空虚(周りには誰もいない)で、もっと言えば滑稽(つぶやきの連発)ということだ。


この感覚を捨ててしまわないようにしようっと。

 血紅の乾ける電話辻辻にひそめり 死者喚(よ)び出さむ一つは?   (塚本邦雄:日本人靈歌)

力尽き

きのうのモノクロは何が写っているのか分からない写真だったので色付きでアップし直し。おまけも一枚。

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dg elmarit 200mm/f2.8
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dg elmarit 200mm/f2.8
新型コロナウイルス感染症対策分科会長のオリンピック発言を批判する人の言葉を聞いていると、(大陸は)『〇万人の英霊の血を流した』『〇万円の国弊を投じた』といってあのカタストロフに突き進んだ歴史がよみがえります。
科学理論と精神論を二元論として扱うマスコミの罪だと思います。
兵士や政治家は精神論を言うのが仕事。客観的な立場でものいうべき者が情緒的、精神論的立場を釣り上げているよに思うのです。

 六月の紺のみづうみ 英靈が力盡き果てああうらがへる   (塚本邦雄:約翰傅偽書)


GQ JAPAN1・2月合併号エディターズ・レター「記憶よ、抵抗せよ」から、
かれのお気に入りの食堂がコロナ禍で閉店したことをうけて、『人間を不幸にするのは幸福の記憶だ、とだれかがいったかもしれないけれど、・・・そこには幸福の記憶があった。』として、

2020年、消滅を強いられたのは、・・・おそらくは、人間がかかわるすべてのことに及んだ。だから、僕たちが生きたことの、そして、幸福な記憶があったことの記憶たちよ、われらを襲わんとする消滅を強いるものどもに、抵抗せよ。(編集長・鈴木正文)

pithecantroupusもいくつかの幸福な記憶を大事にしています。(アウトフォーカスしかけていますが。)

重み恋し

麦畑で気持ちをリフレッシュしたので菖蒲田にもどる気分屋pithecantroupusです。

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s.nokton 29mm 0.80
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dg elmarit 200mm/f2.8
 拳銃の重みこほしきうるしやみ菖蒲(あやめ)あやふくほぐるる時ぞ   (塚本邦雄:閑雅空間)

鶴見俊輔「もうろく帖」75歳(?)の6月、インテリはみんなつまらんにつづけて、『つまらんが つまらんなりに 本を読みつぐ』と書いてあったので、もう少し頑張って本を読もうと思いましたが、いつまでつづくかなあ。第一、インテリじゃないし。

五七調で書くなんて鶴見も75にして耄碌したか、と感じました。
pithecantroupusはとっくのむかしに耄碌していたなあ。
老化は回帰現象なんだと思えば、回帰して若いころの自分に会えるかも。

かめはめは

毎日つづくショウブに飽きて、麦畑で一息です。

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s.nokton 29mm 0.80
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dg summilux 12mm f/1.4
LR-PF309798-3.jpg
s.nokton 29mm 0.80

 麥刈れば濃き夏霞カメハメハ王朝いつ潰(つい)えしか知らねど   (塚本邦雄:閑雅空間)

祝ふ菖蒲田

なおショウブです。

きれいな花は、毎日手入れをして下さる人がいるおかげです。
きのうの一枚目は、花期を終えて摘み取られた花でした。

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dg elmarit 200mm/f2.8
LR-M5319854-Edit-2-1.jpg
OM zuiko 50mm 1.4
LR-M5319841-Edit-1.jpg
OM zuiko 50mm 1.4
これまでも引用したことがあるWEB「考える人」の連載「最後の読書」(津野海太郎)から、荒木経惟を述べた一部分。
津野が荒木からもらったお土産(ベルリンで開催した展覧会の図録)の序文だそうです。

 荒木さんの写真ではカメラがいつも動いている。初期の写真も新しい写真もスナップショット性のものだが、あとでいつも精選され、注意ぶかく分析したのちに手を加えられている。アウトフォーカスのものもあるが、それだって、わざとシロウトっぽくふるまうプロの仕事のあかしなのだ。(略)なにせ荒木さん以上に人間の行為に近づくことは、事実上、不可能なのだから。(原文はドイツ語・英語、筆者訳)

ピンボケと言わずにアウトフォーカスというと芸術的に聞こえるなあ。pithecantroupusも見習おうっと。
これからは頭がピンぼけと言わず脳がアウトフォーカスと言おう!

 誕生日何を祝ふと菖蒲田の疾風寝室に吹き及ぶ   (塚本邦雄:沈鬱皇帝)


きのうの菖蒲田組の歌は漢字遊びの印象でした。
「跡目相續菖蒲田組」の目と田、相と組の旁(つくり)、菖の日と日と、縦線と横線のオンパレード。
そうぞく、しょうぶ、そうりょうという音よりも、視覚のほうが印象的でした。
塚本なら漢字遊びもアリかな、と思ったのです。

菖蒲田組

いつものアマノジャクの虫が。

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dg elmarit 200mm/f2.8
ちょっとまともというか、つまらないというか、pithecantroupusのヘソは曲がっていない証明写真も一枚。

LR-M5319723-Edit-1.jpg
dg elmarit 200mm/f2.8
 跡目相續菖蒲田組の總領が端麗に過ぎ、三年延期   (塚本邦雄:汨羅變)