しづかに湧くあり

一年前に『きょうの「昼食のついでに」写真です。でも、「何撮ってるの」写真ともいいます。ここは菖蒲が咲く城跡の公園です。』と書いた記事の再現です。今回も「ついでに」写真。

01-LR-M5319765-Edit-2-1-.jpg
dg elmarit 200mm 2.8
02-LR-M5319737-Edit-2-1-.jpg
dg elmarit 200mm 2.8
去年はピンボケばかりでした。少しは改善したかなあ。アタマのピンボケはずっと進んでいるけど。(汗)

一年前の記事では藤原辰史「切なさの歴史学」の一部分を引用しましたが、元の記事の省略した部分に写真家の新井卓との話が書いてありました。小説や映画の広告で「1億人が泣いた」「全米が泣いた」「涙が止まらない」とか感動の大安売り状態の中で、私たちはいろいろな文化商品を享受させられていると指摘した後、新井との話が出てきます。

 新井さんは、この手の「感動せよ」「泣け」と叫ぶような広告に対し、あるものにぶつかって、本当に心動かされたら、涙って出ない、泣けっていうのは暴力だと思う、と言っていました。

藤原辰史は、
切ないという感情は、計算してできるようなものではなくて、偶然性の中でぽこぽこと湧き起こってくるようなものだ

と思うとも言っていました。感動もぽこぽこなんでしょうね。湧いてくるのでしょうね。
pithecantroupusはぽこぽこして写真撮っているかなあ。感受性が鈍っているからなあ。

季節外れですが、
 無疵(むきず)なる街やはらかにつつむ雪見つつしづかに湧く怒りあり   (塚本邦雄:装飾樂句)

はじめつゆけき

30分間の家出、いえ、散歩です。
01-LR-PF309822-1-.jpg
s.nokton 29mm 0.8
02-LR-PF309835-Edit-2-1-.jpg
s.nokton 29mm 0.8

 麥秋の鎌いづかたに忘らるる戀のはじめのつゆけき穂波   (塚本邦雄:芒彩集)

負債のごと

14年前の5月をふらふら、ぶらぶら。これは大正村だったような、ちがうような。困った記憶です。(汗)

LR-P6162942-Edit-2.jpg

LR-P6160507-Edit-1.jpg

一年前にブログで、『私としては、・・・全体主義国家を子どもたちに遺贈するよりは、自由のある国で罹患するほうがましです』(A・C・スポンヴィル 「コロナウイルスとの距離のとり方})を引用しましたが、同じ記事の中で彼はこうも言ってました。 

 生命を救うことを目的としている方策に正面から異を唱えるのは難しいことです。そうではありますが、問いを提起することはできます。・・・私はと言えば、心配性な性質(たち)ではありますが、このウイルスで亡くなるかもと恐れてはいません。これに比べれば、アルツハイマー病のほうがはるかに気になります。(pithecantroupusも激しく同意!!!)

 私が気をもむのは、自分の健康ではなく若い世代の行く末です。・・・もっとも重いつけを払わされることになるのは、若い世代です。老人の健康のために若者が犠牲になるのは常軌を逸しています。(オリンピックのつけまでも払わそうとしている!!!)


 勞働祭(メーデー)負債のごとし夕ぐれ明(あか)き地を靑年がころげまはるフープで   (塚本邦雄:日本人靈歌)

薔薇一枝

昨日撮ったのと同じころ岐阜県可児市花フェスタ記念公園へも行ったようですが記憶にございません。
どこで撮っても同じような写真で、我が家の庭とウソを言っても通ります。
pithecantroupusは花も記念写真も苦手です。

01-LR-P6020214-Edit-1-.jpg

02-LR-P6020222-Edit-1-.jpg

 薔薇一枝逆手にしごき血みどろの兄上の手やかがやきにける   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

でたらめ

明智町だったと思うのですが、14年前ゆえ記憶が曖昧です。(汗)

01-LR-P6160424-Edit-2-2-.jpg

02-LR-P6160425-Edit-2-1-.jpg

前にも引用した長田弘「対話の時間」からまた。鶴見俊輔がごろのいい言葉は記憶に残るが五七調が恥ずかしいという気持もとっても分かると言ったのを受けて、長田が、

鶴見さんがつくられたたぶんたった一つの短歌が、ぼくは好きですね。「出鱈目の 鱈目の鱈を干しておいて 夜毎夜毎に 一つ食うかな」(笑)。

と言っていました。pithecantroupusのもやっとした記憶のいいかげんさだって、夜毎夜毎のおやつぐらいにはなるかも。ダメ?

 「菖蒲湯アリ〼」のポスター花菖蒲ゑがきて雨のでたらめ小路   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

はんせい紀

正直なpithecantroupusは昨日また品性を下げるようなことを書いてしまい反省しきりです。
きょうは色気を消して、昨日と同じ明智町、14年もむかし。

01-LR-P6160472-Edit-2-.jpg

02-LR-P6162974-Edit-2-.jpg

03-LR-P6160461-Edit-2-.jpg

先日、山崎努の文を引用した「鬼海弘雄」について、おなじ写真家の都築響一が書いていました。人柄がうかがえるので少し引用します。

 代表作である『PERSONA』は、東京・浅草寺の境内で撮られています。1975年からのシリーズだから相当数撮影してきているわけだけれど、鬼海さんは浅草には住んでいないし、全く浅草に詳しくない(笑)! 撮影で朝から晩までいらっしゃるから、おいしい店とか知ってますかと聞いたら、吉野家やマクドナルドに行くって言うんですよ。「知らない店に入るのは怖い」って。僕が「え! 知らない店に入るといろいろな発見があって面白いでしょう」って聞いたら「そういうのは都会の人が言うこと。自分は田舎もんだからいろいろ考えちゃって、結局慣れた店にしか入らないんだ」って。Brutus Casa 都築響一さんが語る、写真家・鬼海弘雄さんのこと。

”はんせい”文を、
 半世紀前の飢ゑいまさらさらと水飯(すいはん)に浮く蝶の鱗粉   (塚本邦雄:汨羅變)

股間にしたたる

昨日と同じ、岩村、大正村の回想法です。

01-LR-P6162984-2-.jpg

02-LR-P6162997-Edit-2-.jpg

03-LR-P6160377-Edit-2-.jpg

高瀬庄左衛門御留書の不満を言いましたが、主人公がもっているpithecantroupusにはない高潔さに嫉妬したからです。道徳の時間の息苦しさに似たものを感じたのです。

爽やかな時代劇で好きなのは『おお、大砲』です。

わたしはこの作品(おお、大砲)がどこまで歴史的な事実にもとづき、どのあたりから虚構になってゆくのか、調べてみたいとおもいつつ、いやそういう虚実のあわいを残しておいたほうがおもしろいのではないか、という気もしている。なぜなら、司馬遼太郎という物語り作家の本質がその虚実のあわいのところに潜んでいる、とおもっているからだ。本の話 司馬遼太郎賞受賞者が選ぶ私の好きな司馬さんの短篇 松本健一

幼い主人公と後に妻となる隣家の娘が互いに股間に手を伸ばすというpithecantroupusが心躍った場面があるのです。(笑)

 枇杷の汁股間にしたたれるものをわれのみは老いざらむ老いざらむ   (塚本邦雄:詩歌變)

むかしくるめく

むかし撮った写真を見ると後悔が先に立ってしまいます。

01-LR-P6162983-Edit-2-2-.jpg

02-LR-P6022733-Edit-2-2-.jpg

LR-P6020175-Edit-2.jpg

疲労感いっぱいの月曜日もありますよね。
気分を変えようと時代小説をひとつ読みました。高瀬庄左衛門御留書(砂原浩太朗)。藤沢周平とか、葉室麟とかのような爽やかさが年寄りには不満です。(藤沢も葉室もpithecantroupusは大ファン。)
ところで、本の紙質に違和感が残りました。紙が白すぎ、硬すぎ、厚すぎと感じたのは、こちらが老化したせいでしょうか。

 つばくらのむかし眩(くるめ)く 點鬼簿のはじめ矢車剣之介など   (塚本邦雄:されど遊星)

いねむりこそ

去年の今ごろはご近所の麦畑へお散歩ついでに撮りに行ってましたが、煩瑣な家事労働で蟄居閉門中につき、14年前の麦畑を回想です。

01-LR-P5270088-Edit-2-.jpg

02-LR-P5270051-Edit-2-.jpg

 ねむりこそ死への閒道曇日(どんじつ)の穂麥穂のすゑよりあかねさす   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

の唄うたふ

玄関から三歩で撮った写真です。ちょっと家事労働で疲れたので、三歩がせいいっぱいでした。

LR-M5089473-Edit-2-2.jpg

しゃくやく畑の残りものも一枚で、合わせ技で一本ということで。(汗)

LR-M5099537-Edit-3-2.jpg

吉本隆明「フランシス子へ」に、ホトトギスが本当に「実在」するのかと疑っていろいろ調べ、

 じゃあ写真見たら納得するのかっていったら、そんなことじゃ納得できない。

 最初っから「本当だ」と思っていれば、「本当だ」って証拠になりそうなものはたくさんあるわけです。

 何につけても「歴史的事実」と「物語的事実」と、それから「実在性」っていうのがあるわけで、・・・


と、ちょっとあきれましたが、方丈記に、ホトトギスが冥界の使者ということを今更教えられて、吉本がホトトギスにこだわる気持ちが少しわかるような気がしました。

 靑葉かげわが家を占めてみなごろしの唄うたふ妹のほととぎす   (塚本邦雄:水銀傳説)

みぐるみ脱ぎ

”気恥ずかしい”けれど、品格がないpithecantroupusは残りものをどうどうとアップ。 (恥を知れ!)

01-LR-M5309348-Edit-2-2-.jpg
dg elmarit 200mm 2.8
02-LR-PF309576-Edit-4-2-.jpg
s.nokton 29mm 0.8

花が間違ってますが、
 たまはらば恥 壯年の肉冷えてみぐるみ脱ぎし朴の花あり   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

”みぐるみ脱ぐ”を”着ぐるみを脱ぐ”と読んでしまうpithecantroupus。
ぼ~っとした頭にわずかに残っているのは、「過ぎし日のセレナーデ」です。ぜひもう一度見たいなあ。

田村正和の死を聞いて、すぐ思い出したのがこのドラマです。30年も前で、当時は仕事が忙しく、毎週見ることができなかったけれど、とびとびに視聴したドラマがテーマ曲とともに忘れられないのです。

生きる

きのう露呈した品格のなさを”歳ですから”と言い訳したい、を写真で表して。(?)

LR-M5089495-Edit-2-2.jpg
dg elmarit 200mm 2.8
鬼海弘雄を評した山崎努の文は、本の話よりも山崎の経験談が面白かったので長いけど引用します。

(山崎が散歩するコースにプレハブの屋台があって、)ある午後、ダスターコートを着てステッキを突いた小柄で痩身の老人が、強い風の中、川上からふらふらと歩いてきて、目の前で立ち止った。何か呟きながら、テーブル越しの椅子に坐る。
薄い雲ごしの白い太陽を見上げて「あれば何だ」と繰り返している。声をかけると、待っていたかのように「あれは何ですか」「・・・あれは太陽です」「はあ? あれが太陽ですか。へー。近ごろは異常気象だから・・・。へえー、あれが太陽ですか」。
八八歳だという。少し心配になって、どちらから?と訊くと、とたんに苦しそうに顔をしかめ、額をおさえ、考え込む。「・・・ニシコヤマ、ニシコヤマです。頭がぼけちまって。身体はどこも悪くないんです。こないだ初めて虫歯を一本抜きました。わたしは静岡の生まれでしてね、昭和一三年に東京に出てきました。ここへはよく釣りに来ました。二〇年ぶりです」。
そしてぽつりと、「この辺は月は出ないでしょうね。」と言う。「・・・いや出ます」「え、出ますか。そうですか。月が出ますか。・・・きれいでしょうねえ」。しばらく、へーえ、あれが太陽ですか、月が出ますか、ごこに、と呟き続け、缶ピール一-本分三五〇円ちょうどをコインできれいにテーブルに並べ、風に吹かれながら去っていった。
老人は特別幸せそうではなかったが、不幸な様でもなかった。後ろ姿か映画のラストシーンのように遠ざかっていった。川辺にはおもしろい人が現れる。(山崎努「柔らかな犀の角」より『川辺の人々、危ない生き方、土着』)


まるで「どですかでん」か「夢」の映像を見ているような。
彼の人の映画でpithecantroupusが好きな「生きる」で、
 掌にどろりとくわをすくへり死ぬことは生きることよりなほくだらなき   (塚本邦雄:同人誌『くれなゐ』)

ガスのにおい

しゃくやくを撮りに行ったときの残りもの、なおなおです。
われながら、いつまでェ~と思うのですが。

LR-PF099781-Edit-3-2.jpg

「日本の写真史を飾る101人」展で、これまで名しか知らなかった鬼海弘雄を見ました。気になって、山崎努「柔らかな犀の角」に出てくる彼の写真集の評論を読んでみました。鬼海を引用して山崎が、

「いちおう写真家なのだが、今でも、裸のカメラを肩に電車に乗ったりするのはずいぶんと気恥ずかしい」というアマチュア精神に品格を感じる。

というとき、ああ山崎も同じ品格の持ち主なのだと感じます。
pithecantroupusも、気恥ずかしいことはよくあるけどなぁ。
でも最近は人前で屁をしても平気になりました。

ガスの歌を、
 晚餐の卓に濃霧がたちこめて待て!これは糜爛性ガスのにほひ   (塚本邦雄:獻身)

これに福があるかナ

残りものに福があるという言葉を信じましょう。そうは思えない写真ですが信じる者は救われる。(汗)

LR-M5099611-Edit-2.jpg
s.nokton 29mm 0.8

”信”つながりで、
 返信に戀句書きさし掻き消せる彼奴(きやつ)のほほゑましき勇み足   (塚本邦雄:汨羅變)

同窓会へ返信を書かなければいけないのですがすぐに手をつけないのは、切羽詰まってからやるというpithecantroupusの悪い習慣です。このブログの過去記事からネタを探そうかなあ。

かかるくらさ

なにを撮ったか、なぜ撮ったか、記憶にございません。(汗)

01-LR-M5099595-2-.jpg
s.nokton 29mm 0.9

きのうの森山大道つながりで、同じ「ほぼ日」にあった大道自身へのインタビュー記事から。
スランプ(暗いトンネル)を抜ける瞬間はいつかくるものですか、という問いに、

くる。フッと、気持ちが変わるときが。
続けていさえすればね。
目に見えて何かが変わったりはしない。
でも「ああ、また撮んなきゃな」って。


続けてさえいればと聞いて、愚かなpithecantroupusはまたせっせとブログを続けようと思うのでした。
また、別の応答で、ケルアックの『路上』が彼の口から出てビックリしました。コッポラ総指揮の映画も見てないし、もとの本も読んでないけど、ウワサだけは聞いてます。

 きみすらや仇敵として旅に出づ夕映の緋のかかるくらさを   (塚本邦雄:花にめざめよ)

さはれいま

ずるいなあ、pithecantroupusの性根を見透かしたように障子を開けて、覗かせようという魂胆が憎らしいです。
と言いつつ、策にのって、ついパチリと撮ってしまう情けなさ。
むかしから狭間というと助平な連想をしてしまうpithecantroupus。

LR-M5309440-Edit-2-2.jpg
nokton 60mm 0.95

森山大道の名を最近よく見るので、ほぼ日刊イトイ新聞「はじめての森山大道」展企画、大竹昭子が大道を語っている部分から。

 時間というのは、ふつうは「昨日、今日、明日」って進んでいくものだけれど、写真的な時間は、必ずしもそうじゃない
 つまり、撮ったものを見つめ返すときには、時間的に過去の出来事でも、なぜか新しく感じられることがありますね。また逆に、はじめて出会ったものに、あ、これ知ってると感じることもあります。そこには、時計が刻む時間とは別の時間が流れている。

 その気づきが、森山さんの「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」という言葉に結びついていくのかな、と。

 それまで「写真」とは「意味を示すもの」だった。証明写真だったり、めずらしい動物を撮ってきましたとかだったり、つまりは、情報を伝えるものだという考え方が、一般的だったんですね。
 だけど、森山さんは、・・・「写真とは、人間の記憶を探るものなんだ」という感覚をも持ち得たんです。



時計が刻む時間とは別の時間は、pithecantroupusの場合、頭の中を流れていますが。(笑)
森山つながりで、森の歌を。
 歌はずばわが聲忘るさはれいま穂麥の針の森行く雲雀   (塚本邦雄:星夜絶交)

自分のため

しゃくやく畑なのですが、きれいに撮れない、素直でないpithecantroupus。

02-LR-M5099571-Edit-2-2-.jpg
s.nokton 29mm 0.8
石内都が対談で言ってました。

 写真ってやっぱり、
 自分のためだけに撮るものだなと思う。
 人のためには、撮れなかった。


彼女が言うとカッコいいなあ。

LR-M5099563-Edit-2.jpg
samyang 135mm 2.0

 時閒こそ花なるべきにわれは倦みかなたには露かわくまでの髪   (塚本邦雄:感幻樂)

ゑ日記

なに撮ってるの、ただの塀撮ってるの、ヘェ~。てなもんです。(汗)

LR-M5309466-Edit-2-2.jpg
nokton 60mm 0.95
PR誌「ちくま」5月号に、“「わたし」を身体に取り戻す”(草野なつか)という短文がありました。

 筆者はこれまで日記が続かなかったといいます。それは実行力の足りない不完全な完璧主義者のせいだと思うが、今回は「一行でもいいからなるべく毎日書く」「無理して毎日書かない」というルールで続いているといいます。
 pithecantroupusが毎日ブログに写真を載せているのもこの類です。

 毎日書く日記が、整理苦手、分類下手の脳を鍛えてくれたそうで、凡て一度頭の中で並べ、分けて、そこからひとつの「何か」をすくい上げるという“訓練”、分類と優先を日々繰り返すことで脳内に分類部屋が新設されたそうです。

 pithecantroupusの脳もちゃんと整理整頓ができるようになってきているのかなあ。どんどん散らかっていってるような気がするけども。


 合はすべき繪のそれぞれに色冱(さ)ゆれあたりを拂ふ須磨の繪日記   (塚本邦雄:源氏五十四帖題詠)

あきが来て

きれいだけど毎日おなじ花に飽きたので。

01-LR-M5309430-Edit-2-2-.jpg
nokton 60mm 0.95
02-LR-PF309662-Edit-2-.jpg
dg summilux 12mm 1.4

 一期一會(いちごいちゑ)、二會(にゑ)、三會(さんゑ)はや飽きが來て金木犀が鼻持ちならぬ   (塚本邦雄:汨羅變)

一期一会という言葉が川端康成「美しい日本の私」で汚されたように感じたときは受験勉強の真っ最中でした。

まだ生きている

レンズで目くらましをかまそうという魂胆です。(汗)

01-LR-PF099743-Edit-2-.jpg
lensbaby 5.8mm 3.5
02-LR-PF099742-Edit-2-.jpg
lensbaby 5.8mm 3.5
03-LR-PF099749-Edit-2-.jpg
lensbaby 5.8mm 3.5
 辻潤(つじ・じゅん)の随筆「まだ生きている」(『絶望の書・ですペら』収録)は、「まだ生きている、というしるしになにか書いてくれというN君の註文によってペンをとりあげたところなり」の一文から始まる。この一文さえ読めば、先を読まなくても別にいいと思う名文である。・・・頭だけでこねくりまわした文章や、紋切り型の思考形式を使って書いた文章では、こうはいくまいと思う。さらに言ってしまえば、最初の一文を読まなくても、タイトルと著者名だけ読めばそれだけで十分なのもすごい。・・・(晶文社スクラップ 宮崎智之「モヤモヤの日々」より)

このあと、『誰が読んでも「ああ、これは辻潤の文章だ」とわかる、独創的な魅力を持っていたから可能だった。』とあり、写真も同じだなあと感じました。

 愚かなりしきのふのわれを言はざれば皎(かう)とし荒るる花薄原   (塚本邦雄:透明文法)

二十日十日十一日

律義者をつづけます。しゃくやく畑のとなりは茶畑でした。

01-LR-M5099526-2-.jpg
samyang 135mm 2.0
02-LR-M5099589-Edit-2-.jpg
s.nokton 29mm 0.8
 芍藥切ってよりはや二十日(はつか) 遠方の祝言悦ぶふりして十日   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

頭の中の小さな部分だそうです

誘ってくれた友人に礼を失しないようにしゃくやくを撮った写真もあげないと。律義者、pithecantroupus!

LR-M5099568-Edit-3-2.jpg
s.nokton 29mm 0.8
盛りの様も記念に。

LR-M5099575-Edit-2.jpg
s.nokton 29mm 0.8
一昨日の山田太一つながりで、かれが読書歴をひろうしているサイト(WEB本の雑誌)から、

高校生のころ、『小林秀雄全集』が刊行されて、毎月買っていました。読んでもよく分からないところが多いのだけれども、それでも文章がよくってハマっちゃいましたね。

え~、ウソだあ。小林は悪文と習ったぞ。pithecantroupusも高校生の時、小林を毎日読んでたら、書く文がどれも小林調になって困ったもん。

――小説も脚本も、プロットを固めずにお書きになっているそうですが。
山田:全部頭で決めてしまったら、知性だけでつくったものになってしまう。小説もドラマも知性ではないものを呼び込むために書いているところがあります。・・・そういう面白さがなければ、書く意味の半分くらいを失くしてしまいます。知的な部分で考えたことなんて、人間の頭の中の小さな部分ですよ。それ以外の部分をどれくらい呼び込めるかってことです。
――呼び込めた、と思う瞬間はあるのですか。
山田:ありますね。あると小躍りします。でも人に読んでもらっても、誰も気づかなかったりします(笑)。

作家の読書道 第148回:山田太一さん

pithecantroupusはもともと知性だけでつくるなんてできないけど、それでいいんだ!
でも、知的でない部分を呼び込もうにも、それも無いのはどうしよう。

 智慧はさびしからすむぎ打つ連枷(からさを)の頬打つひびきかそかなれども   (塚本邦雄:新月祭)

ここより先はうつ

しゃくやくを撮ろうと友人が誘ってくれました。
しゃくやく畑は花の盛りでしたが、アマノジャクはよそ見した写真の方が少しましだったので。

01-LR-M5099621-Edit-2-.jpg
s.nokton 29mm 0.8
02-LR-M5099606-Edit-2-2-.jpg
s.nokton 29mm 0.8
03-LR-M5099626-Edit-2-.jpg
s.nokton 29mm 0.8
pithecantroupusにうつつはもう来ないと思いますが、
 ここより先はうつつはつなつ薄明に一人の夢の藍の芍藥   (塚本邦雄:天變の書)

かすむ目とぼける頭

これは写真ですか。
はい、目がかすんでピントがつかめず、どちらが上か、正しいホワイト・バランスも分からない半恍惚が撮った写真です。
だから、老人の老人による老人のための写真です。(笑)

自分でつけたきのうのエントリータイトルから何文字か脱落して、「フォークをまげる」と読んでしまうpithecantroupus。(汗)

LR-PF309509-Edit-5-2.jpg
nokton 60mm 0.95
古い記事で、2014年に『月日の残像』で小林秀雄賞を受賞したときの山田太一インタビューの一部です。

 人間がこうして生きて、ある年月が経つと死んでゆく。何者か、超越的な存在がいるかもしれないという発想は、そんなに突飛ではないと思っています。

 小林秀雄さんは、終戦の翌年にお母様が亡くなったあと、夕暮れに蛍が飛んでいるのを見て、お母さんは蛍になったんだと思ったと書いていますね(『感想』)。この世にあるものに何の意味もないとすれば、どう考えたっていいとも言えるでしょう。蛍を母だと思う。フィクションとはそういうものだと思います。ある人にとってそれはシロクマかもしれない。

 つまり、僕らは意味を欲しているんだと思うんです。自分を安定させる、心を安定させるようなフィクションを必要としている。そのフィクションは現実によって否定される。否定されることでフィクションも力をつける。よきフィクションは宝だと思います。

考える人 『月日の残像』山田太一より)

そうだフィクション。
今日の写真をフジだといえばいいのだ。
じつは海馬の新生ニューロンだけど。

 老醫師の霞める目もて空蟬のごといたはらる病後の少女   (塚本邦雄:驟雨修辭學)

フォークをにげまわる

こんどは関町の残りものでもいいですか。(学習の成果が出ています!)

01-LR-PF309686-Edit-2-.jpg
dg summilux 12mm 1.4
02-LR-PF309674-Edit-2-.jpg
dg summilux 12mm 1.4
03-LR-PF309647-Edit-2-.jpg
s.nokton 29mm 0.8
前に大塚英志「2020年の撃ちてし止まむ」(webちくま)から引用しましたが、同じ著者のこの言葉を。

ぼくは、自分の生活、日常に公権力が入り込み、そこに「正義」が仮にあっても、それはやはり不快である。そして、その「不快である」ということ自体が言い難く、誰かがそれを言い出さないか互いに牽制しあい、「新しい日常」を生きることが自明とされる。そういう空気はきっと近衛新体制下の日常の基調にあった、と想像もする。
 ぼくはそのことがとても気持ちが悪い。
webちくま 「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち

公権力に守られていると分かってはいるのですが、時々、誰を守っているのだろうと思います。
ものが言いがたい空気の中でものを言うのは老人の役割と思うのですがpithecantroupusは臆病ものです。

 平穏無事に五月過ぎつつ警官のフォークを遁げまはる貝柱   (塚本邦雄:日本人靈歌)

戻っていいですか

フジの残りものに戻ってみて。(しまった、学習したのに。)
フジの残りものに戻っていいですか。(どうだ!)

01-LR-PF309529-Edit-4-2-.jpg
nokton 60mm 0.95
うえは実は多重露光です。おなじく多重露光をもう一枚。

02-LR-PF309529-Edit-2-.jpg
nokton 60mm 0.95
すなおな写真も一枚貼って、性格がいいというエビデンス。

03-LR-M5309398-Edit-2-2-.jpg
dg elmarit 200mm 2.8

 藤は若むらさきの霞にわが愛は潮(うしほ)のごとく夕闇に滿つ   (塚本邦雄:佐藤泰三大人に寄する頭韻四季歌 春)

ラファエロ・ミケランジェロ・チェロ

なお関町。

01-LR-PF309670-Edit-2-.jpg

02-LR-PF309644-Edit-2-.jpg

03-LR-M5309429-Edit-2-.jpg

あるところにカメラは煩悩の機械と書いてありました。
エッチな写真をせっせとスクラップしているというみうら・じゅんのインタビューです。

長年「エロスクラップ」をやってますけど、これも諸行無常なところがあって、すべてのものはカタチが変わって、最後に無くなるんですよ。「エロスクラップ」も36年間で560巻くらい作ったけど、初期の1巻目とか見たら、ピッチピチしたその女性は(そのままの姿形で)もう居ないってことに気がついて、萎えるんですよね。エロは永遠には突き進むけど、終わるとこには向かわない。「無」から生まれて、「無」に戻る人生のプロセスの、一番良いとこを止めているのが写真なんじゃないですか? 貴族の特権階級で楽しみだったヌード画が廃れたのは、写真のせいだと言います。写真は、記録のためじゃなくてそもそもエロで進化したんじゃないですかね。どうにかして目に焼き付けたいという男の煩悩がそうさせた。男ってモノ残すの好きじゃないですか。 だから人間は生きた証が欲しいんですよ。それが写真なんです。人間は無いところから生まれて、無いところに向かうのに、どうにか「在った」ということにしておきたい。という意味では、カメラは煩悩の機械ということになります。(FUJIFILM 一枚の写真の力 vol.33)

余人はさておきpithecantroupusにとって、”ぼんのう”という言葉が甘いささやきに聞こえるから、きっとカメラは煩悩の機械です。解脱は遠いなあ。

エロを探して引用。
 チェロの絃(げん)もて括る五月のからたち葎(むぐら)、不安なる結實のまへ   (塚本邦雄:日本人靈歌)
 卵管の径2ミクロンその中を潜つてミケランジェロも生れき   ( 〃 :約翰傅偽書)
 齒痛やまざる秋夜の底にラファエロの粗描「美しき女園丁」   ( 〃 :天變の書)

あなたのお役に

なお関町です。

01-LR-M5309441-Edit-2-.jpg

あすはこどもの日。とおい昔が思い出されます。

02-LR-PF309715-Edit-3-2-.jpg

養老孟司が川上和人『鳥類学は、あなたのお役に立てますか?』の書評を書いていました。

 そうか、この手があったか。このタイトルを見たときに、そう感じた。・・・私の時代は「鳥類学の有用性」などと称して、この問題を正面から論じたはずである。いまはそういうヤボなことはしない。「あなたのお役に立てますか」と下手に出る。・・・
 ・・・比喩にカタカナの怪獣名が出てきたりすると、著者は私の子どもの世代だなと感じる。私や上の世代だと論語や老荘になる。鳥類学者にとって鵬とはいかなる存在であろうか。
新潮社「波」4月号 養老孟司「役に立たない、わけではない。」

養老先生の気持ちがよく分かります。あなたのお役に立てますか、とは意識してもなかなか言えません。


 江口の君の出自訊くこの野暮天にタコヤキ・ヴィシソワーズ與へよ   (塚本邦雄:汨羅變)

花も嵐もふみこえて

藤を撮った後、近くの亀山市関町へ行きました。
まえに関町へ来たのは2年以上前なので、新鮮な気持ちで撮れました。
季節感のない写真ですが。

01-LR-PF309676-Edit-2-.jpg


骨董品の売り物だそうで、この向こう側に看護婦さんがいたわけではないそうですが、「看護婦」という文字が老人をムラムラさせたのでパシャッ。(ドキドキするのは心臓によくないよ。)
(愛染かずらを思い出すほどには歳をくっていませんが、ウワサに名前は聞いたことがあります。)
♪花も嵐も踏み越えて~

02-LR-PF309640-Edit-2-2-.jpg

花も嵐もの嵐で、
 嵐が丘老人ホーム豫定地の春泥、神無月まで殘る   (塚本邦雄:汨羅變)

言い訳を言い張る

写真の勉強をするよりも言い訳を勉強したほうが手っ取り早いかも。

01-LR-M5309405-Edit-2-.jpg

これもフジです。

02-LR-PF309602-Edit-2-.jpg

これもフジ。

03-LR-PF309543-Edit-3-2-.jpg

言い訳の勉強に、一昨日引用した大山顕つながりで、

 ・・・彼らはカメラを使って新しい視点を得ることではなく、カメラそのものに興味あるんです。もちろんいい機材を持っているのですが、被写体は尾瀬の水芭蕉だったりする。

 ・・・なにを撮るか以前にきれいに写真を撮ることに興味がある。上手くカメラが扱えることを証明するために、だれかがきれいに撮ったものを同じように撮ることに価値があった。しかしスマホの登場以降は状況が変わりました。・・・(スマホの登場によって、道具の制約にとらわれずに「写真とはなにか」が問える環境になった。)

 ・・・あらゆるジャンルにおける「作家」は、そのジャンルとはなにかをつねに語ってきた。写真もまた、「写真とはなにか」ということを問われつづけています。
 だからこそ、写真におけるプロとアマチュアを分ける明確なちがいは、写真とはなにかを語るひとか否かという、ジャンルをめぐる言論の問題になっていく。・・・
ゲンロンα『「表面」を収集する――『新写真論』刊行直前インタビュー 大山顕』


たしかに、だれかがきれいに撮ったものを同じように撮っても意味ないなあ。
pithecantroupusは、だれかがきれいに撮ったものをきれいに撮れないから、汚く撮ることはできるかも。
 つまさきのきずは庭師のつねなどと言ひはるほどの粋な來し方   (塚本邦雄:透明文法)

フジ詣で

苦手だけど挑戦する態度は尊いと自画自賛するpithecantroupus。
歳をとると図々しくなります。(汗)

01-LR-M5309374-Edit-2-.jpg

02-LR-PF309579-Edit-2-.jpg

フジ違いですが、
 富士詣(まう)で五月(さつき)三十日(みそか)の浅葱空(あさぎぞら)淺きはわれの夢とこそ憶へ   (塚本邦雄:銀朱帖)