桜ひしめく

河津桜なお。”記念写真”ですが。

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super nokton 29mm 0.8
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dg elmarit 200mm 2.8
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dg elmarit 200mm 2.8
櫻鮠(さくらばえ)ひしめく川を流れ來し書翰一通、二伸妻の死   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

その日の天使

友人が地元の河津桜を撮ろうと昼食の”ついでに写真”に誘ってくれましたが、
あまのじゃくの虫がまた出てしまいました。

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nokton 29mm
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dg elmarit 200mm
誘ってくれた友人に敬意を表して、”感謝”の河津桜も一枚。

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nokton 29mm
きのう引用した「ビッグ・イシュー」は「GQ JAPAN 2021年4月号」エディターズ・レターで教えてもらいました。
そこから一部を引用します。

 その男性は、JR恵比寿駅の駅頭で、雑誌「ビッグイシュー日本版」を売っていた。僕とおなじ鈴木という苗字だというその人のことを知ったのは、僕が長年通うキック・ボクシングのジムの会長のNさんが教えてくれたからである。・・・
強い北風が吹いた1月最後の土曜の早朝、恵比寿のジムに向かって歩いているとき、僕はふと、まだ見ぬ鈴木さんのことを思い出した。鈴木さんがいまも恵比寿駅頭で路上販売をつづけているのなら、トレーニングのあとに、その号を買いに駅までいこうとかんがえたのだ。・・・
トレーニングの終わりに、Nさんに鈴木さんのことを訊ねると、「ああ。鈴木さん、もういないんですよ。……お亡くなりになったのです」。・・・
僕にことばはなかった。そして、どうしてか、中島らもの「その日の天使」という短いエッセイが頭をよぎった。

そのつづきは中島らもの「その日の天使」の話になりますが、そのエッセイに関してはエディターズ・レターの記事よりもこちらのほう(「それぞれの天使」 Mr.ぽんすけのnote) が面白かったです。

”らも”の歌で、
 迷路ゆく媚藥賣りらも榲桲(まるめろ)の果(み)を舐めてまた睡りにかへり   (塚本邦雄:水葬物語)

婆が公園

きのうのお口直しのやり直しを”郷愁の白川郷”で。

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あっ、何撮ってるのになっています。白川郷で撮ったのに。

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ホームレスが売る雑誌というキャッチフレーズの「ビッグイシュー」に去年7月に行われたイベントのレポートが載ってました。ホームレスの置かれた現状から公共施設の在り方を問う内容です。(必要なのはルールではなく、対話と自治 映画『パブリック 図書館の奇跡』から考える公共性を持つ空間のこれから
その中から、私設公民館とも言える『喫茶ランドリー』の女性オーナーの言葉を引用します。

 私は街なかへのベンチの設置を広める活動もしています。そういうときに行政や企業の方から必ず言われるのが、『ベンチでホームレスが寝たらどうするんですか』という質問。決まって私は『どうもしませんよ』って言います(笑)。ホームレスの人たちに自分の権利を奪われているというおごりと、怒りと、自分も被害者という意識。独特のさもしさが表れていると思っています。同時に自分はホームレスにはならないって信じ切っている人がとても多いのが私には不思議です

記事の最後の方にあった『誰かが作ったルールに頼りきり、対話を避けてきたツケ』という言葉にもギクリとしました。

公共施設の歌を引用して、
 ゆでたまご賣りの老婆が公園へ走る 安息日に榮光(はえ)あらむ   (塚本邦雄:日本人靈歌)

わがバカ

きのうはうかうかと鶴見俊輔の言葉にのせられてしまいました。
pithecantroupusはインテリに弱いからなあ。

せめてもと、写真でお口直しをしました。(汗)

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dg elmarit 200mm
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m.zuiko 30mm macro
お口直しになっていない?
そこはpithecantroupusですから。(笑)

山崎努も言ってます。
 「この人、なんでこんなことにこだわるの? バカなのかも?」と読者に思わせるのが小説の醍醐味、と保坂(和志)は言う。・・・「バカなのかも?」はストライク。この人バカなんだ、と無視されては元も子もない。バカなのかも? がミソなので、その按配が厄介、綱渡りなのだ。本気でものを創る人は皆その危険を冒している。この人、バカなのかも? 今後もこれでいこう。(山崎努「柔らかな犀の角」)

バカの歌が見つけられずにハカで引用して、
 朱の硯洗はむとしてまなことづわが墓建てらるる日も雪か   (塚本邦雄:歌人)

いいひと

朝から花粉にやられてます。もらった薬がちょっと弱かったかなあ。
きのう撮った玄関から三歩写真をもう少し。

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dg elmarit 200mm 2.8
白椿も一枚。

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m.zuiko 30mm macro
白川郷ノスタルジアも。

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歳とともに悔悟することが増えます。

ときどき引用しているPR誌「ちくま」第486号(2011年9月)にあった『日本人は何を捨ててきたのか――思想家・鶴見俊輔の肉声』の批評文(中島岳志「大切なものを捨ててはいまいか」)から。

 鶴見は言う。「いい人がいけない」。
 さらに言う。「真面目な人、いい人は困る」「正義の人ははた迷惑だ」。
 なぜか。
 それは「いい人は世の中と一緒にぐらぐらと動いていく」からだ。「いい人ほど友達として頼りにならない」。
 それに引き換え、「悪党は頼りになる」。それは「悪党はある種の法則性を持っている」からだ。

もっと前に知りたかった。”いい人”になろうなろうと努力していたあれは何だったのだろう。今更生き方変えられない。
もっとも、”いい人”を目指していても、周りから見れば”悪党”ということもあるだろうなあ。100%”いい人”なんていない。どこかで”悪党”でどこかで”いい人”。

”いい”の歌を、季節がずれますが引用して、
 乾魚を酢にてもどせり冬ふかく聖書には易易(いい)と神の復活   (塚本邦雄:装飾樂句)

白椿知らば

ウメの写真でブレ、ボケの大失敗をしたことを反省して、玄関から三歩のところに咲きはじめた白椿でトレーニング、トレーニング。

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dg elmarit 200mm 2.8
郷愁の白川郷も一枚。
きれいな写真が撮れるという撮影ポイントを横目に、世界遺産登録現地調査をするICOMOSには見せたくない写真。

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 春ゆふべみづさわぐ野の白椿知らばそむかむ人ならぬ神  (塚本邦雄:寄花戀)

猫それぞれのうちに

温かくなって花粉が元気になったようで、薬は飲んでいるのですが目がかゆいです。

郷愁の罠につかまって白川郷ですが、また何撮っているのです。

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山崎努「柔らかな犀の角」は角田光代「マザコン」の批評で終わっています。
角田といえば、PR誌「ちくま」に「すべての猫は語る」という題でポール・ギャリコ『猫語のノート』の批評を書いていました。

 猫が我が家にやってくる前、「猫」という生きものは、私の世界に存在しないに等しかった。もちろん認識はしていたけれど、ただ「かわいい生きもの」として分類されていたにすぎなくて、犬やハムスターとそう大きくは変わらなかった。
 猫がやってきて、そうして私の世界に「猫」がやっと生き生きと存在しはじめた。猫が猫として存在するということは、犬やハムスターと「猫」の違いがはっきりわかることを意味し、また、自分ちの猫のみならずすべての猫を愛することを意味する。

のだそうです。Pithecantroupusには理解が及ばない世界です。さらに、

「猫語で書かれた猫の言葉」なんて表現することを、かつての私は「人間の思いを押しつけている」と解釈していたのだ。でも、今は違う。
猫って、びっくりするほど表情ゆたかだと知ったから。しかもものすごく感情に沿った表情をする。不満なら不満をあらわし、戸惑いなら戸惑いをあらわし、安心なら安心をあらわす。好きなのにきらいなんてふりはしないし、たのしいのにつまらない顔をすることもない。唯一ごまかすのは、私たちが猫の失敗を見てしまったとき。ベッドに飛び乗ろうとして落ちる、遊びに夢中になりすぎて顔から壁にぶつかる、なんてことをしでかしたとき、「何もしていなかったけど?」という顔をする。

のだそうです。そういえば吉本隆明の最期の本「フランシス子へ」のフランシス子も彼の愛猫です。いえ、彼より先に亡くなったのですから「愛猫でした」。
本はその猫の思い出を延々と綴るところから書き始められているのですが、少し読み進めると、

 猫というのは本当に不思議なもんです。
 猫にしかない、独特の魅力があるんですね。
 それは何かっていったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。
 あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。
 自分の「うつし」がそこにいるっていうあの感じというのは、・・・

と書いていて、次の章へいくと、

自分の「うつし」が死んだ。
「うつし」が亡くなってしまった。

と哀切に書き出されます。100ページ余の本の前半はフランシス子につながる話です。
今日はネコの日だそうですので長々とネコを引用しました。

 盲(めし)ひたる猫それぞれのうちに養(か)ひ微溫浴室(テビダリウム)のごとし我家は   (塚本邦雄:日本人靈歌)

未知は救い

ゴミを撮ったのではなく、写真そのものがゴミですが、これも”日記”の一こまということでご容赦ご容赦。

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nokton 29mm 0.8
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tokina 300mm reflex

お気に入りだった女優の「最後の手記」で馬馬虎虎という言葉を初めて知りました。(八千草薫さん最後の手記「ちょっとだけ無理をして生きたい」 文藝春秋WEB)
ネットで検索したらいろいろな場所で言及されていてpithecantroupusの無知があらためて証明されたような気がします。でも、この歳で新しい知識を得るのは楽しいです。

季節がずれていますが”未知”なので、
 未知は救い 夏ふかくなり水槽に豆腐傷つきあひつつ沈む   (塚本邦雄:日本人靈歌)

さながらにみづみづし

ようやくウメを撮りに行けましたが、久しぶりの撮影に、ピント外れと手ブレばかりでした。
レンズが悪いのに違いないと思います。(笑)

田起こしされて水も少しずつひかれてきていました。

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nokton 29mm 0.8
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nokton 29mm 0.8

 白梅(しらうめ)の香もさながらにみづみづし嵯峨(さが)のみかどの古萬葉集(こまんえふしふ)   (塚本邦雄:源氏五十四帖題詠)

「もうろく帖」(後編、鶴見俊輔著 SURE発行)に、「山崎努(俳優)が、黒川創の私へのインタビューの記録(『不逞老人』)にふれた批評がうれしかった。」とあったので、その批評がのっている山崎努「柔らかな犀の角」を読み始めたら、これが山崎の読書録のようなもので、pithecantroupusが好きな荒木経惟や浅田政志の本も出てきます。

にじみふる雪

ブログをいじっていたら記事が全部二重投稿になったのでただいま修理中です。とりあえず最近の記事だけはまともになりました。
不得意なことに手を出すとあとが大変。ボケて何もできなくなる前にやりたいことをひとつでもやっておこうという貧乏人根性がいけないのかなあ。

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 繪がらすの鳥や花らににじみ降る雪、さりげなき別れの時の   (塚本邦雄:水葬物語)

長いものにはまかれる

郷愁の湯船にひたりながら。

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ねずみ男にまだ引かかっています。
前回の引用の続きから、

鶴見:・・・ねずみ男が突きさす思想とは、「人は意志のみで生きるものにあらず」という感覚だなあ。・・・それは学校で教えてくれない思想の部分だし、・・・右翼、左翼ともに意志的に生きよ、意志力でなんとかなると教えるでしょう。その点では、右翼、左翼一緒なんだな。
ねずみ男は、全然それと違う思想の領域です。長いものには巻かれろという、・・・それがねずみ男の考え方の劇的な表現のある部分を、ある段階をしめしている。
流れにまかれて、そこでとまらないで、もういっぺん、それをふりほどいてもどってくるでしょう、あのおもしろさなんだ。・・・

長田:ねずみ男は、長いものには巻かれろというのを、長いものに巻かれてやれって自分を放りだしますね。なぜ、そうするか、ぼくの思うには、それは「祭り捨て」という生き方なんじゃないか。・・・
力のあるやつに身をよせるように見せて、力のあるやつがつぶれると、「やれやれ」とあっさり見はなして、はばからない、じつにいい加減なんですが、そのいい加減さというのは「祭り捨て」の方法なんで、それは指導者に対する非指導者の変わらない足場でもある。・・・

右翼左翼、指導者非指導者と、鶴見や長田がつかう言葉の古さが懐かしいです。
ねずみ男は、風呂に入らない、服は着た切りでやたら匂う、屁が臭い、pithecantroupusのあこがれです。

 月光にわれの半身泡立ちてただよへり前後左右の深淵   (塚本邦雄:花劇)

クズかご

郷愁の”ゴミ”写真と在原ノスタルジアで。

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ゴミのかわりにクズで、
 空港伊丹キオスク脇の屑籠に正體もなきイズベスチア   (塚本邦雄:魔王)

ねずみ男のように

むかしからやっぱり”ゴミ”撮ってました、”何撮ってるの”でしたの証明みたいなのを。
性は変え難いです。

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ねずみ男について、長田弘「対話の時間」から長田と鶴見の対談『ねずみ男のように』の鶴見の発言から一部を引用します。

 自分が年をとってゆくにしたがって、水木しげるの漫画を読んでみても、十年まえと引きくらべてみると、いまでは「鬼太郎夜話」などを読んでみると鬼太郎に一体化するより、ねずみ男に一体化する部分がわたしのなかに多くなってきている。・・・自分の思想を自分で見る見方が違ってきていて、まえには自分の意志的な部分というか、こう決断して、こう手を置くというのを見ていたのが、いまは、うごかされている自分を見るというか、不随意筋が自然にある仕方にうごくのはなぜかと思ったり、そこのところから見るようになると、こんどは、決断の担い手である鬼太郎よりも、反射的なねずみ男のほうが自分にとって考えさせられる領分を多くふくんでいるような気がするんです。・・・
 抽象化して、スローガン化してしまうと、イメージがさがっておもしろさがなくなっちゃうんだが、あえて広げるとすれば、わたしのなかへねずみ男が突きさす思想とは、「人は意志のみで生きるものにあらず」という感覚だなあ。・・・

ねずみ男はpithecantroupusにぴったりだなあ。もっと見習わなければいけないなあ。


意志のかわりに石で、
 石に坐し明日の世界を彈きいだす冷酷なピアニストを戀ふも   (塚本邦雄:装飾樂句)

主題は失敗

2週間も前から近所の庭を観察しては、ウメが撮りたいなあと思っていたのですが、チャンスがなくて、また郷愁のウメで我慢です。

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せっかく始めた在原も一枚だけ。

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先日引用した鶴見俊輔追悼文から、引用しなかった部分を、

 鶴見俊輔の生涯の主題は失敗の研究だった。
 人はなぜ失敗をするか、ではない。失敗をした人間が何を学ぶか、その後にどのような方向に進んでいくかということに、彼はいつも関心を抱いていた。
 彼は書いている(『鶴見俊輔全詩集』編集グループSURE、二〇一四年)。
「錯誤をだきとることの/できるものは/なんとおおきいか」
 この姿勢が鶴見を転向研究へ向かわせ、「ねずみ男の哲学」へと向かわせた。・・・(【追悼・鶴見俊輔】頂点は見えない/四方田犬彦)

ねずみ男の哲学って何だ、と疑問になって長田弘「対話の時間」を読み始めています。例のとおり、古本屋でコンディション「可」の764円なり。

 エレミア哀歌の哀の文字なし歩みつつ 猬(はりねずみ)完膚なき針もてり   (塚本邦雄:水銀傳説)

今業平

きのう郷愁の白川郷の茅葺屋根にひっぱられて、滋賀県マキノ在原の写真を。
これもブログ開設以前ですが。

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在原の写真なので、
 四条畷のつりがねにんじん瑠璃冱えて今業平の單身赴任   (塚本邦雄:詩歌變)


里山の思い出をふりかえりながら、

 (核家族が進み、これまで家族で共有し使い回してきたすべての財が個人の私物に分解して不動産物件、冷蔵庫、テレビがみんな人数分要るようになったことで、市場の「ビッグバン」が到来した。)「これはオレのものだ。誰も触るな」という共有を拒否するマインドそのものがGDPを押し上げて、高度成長の推力になった。誰とも何も共有しない、誰とも折り合いをつけないで「自分らしさ」を追求する「あらゆるものの私有化」が資本主義においては「絶対善」だとみなされた。その結果が今です。

 バブルが崩壊してから、そろそろ30年。それからの日本はひたすら貧しくなってきているのですが、「誰とも財を分かち合わない」というマインドだけは変わっていない。(互いに共有するすることで成立している)コモンというのはひとりひとりの生活を豊かにするための公共財でした。でも、いまはもうすべてに所有者のラベルが貼ってあって、みんなが利用できるコモンはない。

 僕が子どもの頃の日本は「共和的な貧しさ」のうちにありました。貧しかったけれども、みんなが多くのものを共有していた。要るものはみんなで使い回し、順番によその家の子どもの面倒を見た。日本はいま再び貧しくなってきました。だから、あの頃のように財やサービスを公共の場に供託して、それを必要とする者が使うという仕組みをもう一度立て直すときがきたと僕は思います。(内田樹「倉吉の汽水空港でこんな話をした。」より)

生きて虜囚の辱

新しいけど”ゴミ”ばっかりなので、郷愁の白川郷でみそぎをしようという魂胆です。

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そろそろ花粉症の季節です。来週行く内科のお医者さんに点鼻薬をお願いしなければ。
 アメリカ背高泡立草三ヘクタール生きて虜囚の辱(はづかしめ)を受けよ   (塚本邦雄:黄金律)

きのう、ゴミでも美しいと言ってもいいんだ、ズレていてもいいんだと言ったあと、発禁本で記憶していた宮武外骨をふと思い出しました。
それで筑摩書房のPR誌「ちくま」の宮武外骨『アメリカ様』の記事をWEBから引用して、

 なぜこの本には『アメリカ様』などという奇妙なタイトルが付けられたのか。それは軍閥・財閥解体、言論の自由、戦争放棄などが日本人自身によって果たされず、アメリカによってなされたこと、そして敗戦により、昔は対等であったアメリカの支配下に置かれた状況を、自虐的に表現するためであった。・・・

 外骨は、「軍閥を跋扈せしめたのは国民である。官僚や財閥のほかに、多くの国民が漸次軍閥の悪を増長せしめた」として、権力者たちの台頭を許した愚かな国民をも指弾している。・・・

 敗戦直後、アメリカは宣戦布告時の閣僚であった岸信介をA級戦犯容疑で逮捕したが、一九四八年には釈放した。CIAの機密文書を明るみに出したティム・ワイナーによれば、釈放された岸はその足で首相公邸を訪れ、占領下の政府で官房長官を務めていた弟の佐藤栄作に会った。佐藤は囚人服を着替えるようにと、兄に背広を手渡した。すると岸は、「おかしなものだな、今やわれわれはみんな民主主義者だ」と言ったという(藤田博司他訳『CIA秘録』上巻、文藝春秋社)。戦争指導者としての懺悔の気持ちは微塵もない。(筑摩書房「ちくま」より「自由なき時代への回帰/福田邦夫」)

不可か不か

ゴミを撮ったと言われようとも・・・。
玄関から三歩です。

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m.zuiko 60mm 2.8 macro

チック・コリアが亡くなったそうです。“リターン・トゥ・フォーエヴァー”が出た頃は学生。友人は画期的といいましたが、ときどき立ち寄ったジャズ喫茶にはおいてなかったと思います。


ある車の宣伝サイトに“違和感”についてのインタビュー記事がありました(穂村弘「短歌を詠み、読み続けるかぎり、わたしはマイノリティであり続ける。」)

 精神科医の物書きである友人は、クルマの運転席が右か左かにしかないのが理解できない、と言っています。なぜ真ん中にしないんだ、と。いや、真ん中にない理由はいろいろあるはずですが、考え方としてはちょっとわかるんですよ。ぼくはそんなことは思ったことがなかったけれど、そうやって(現実に対して)ズレとして感じることができる人がいるということは面白い。


みんながいうことに反してもいいんだ。ゴミでも美しいと言ってもいいんだ。pithecantroupusはズレていてもいいんだ!

 不可・可・不可いづれにもせよ二百代至尊のために植うる 椒(はじかみ)   (塚本邦雄:汨羅變)

風過ぎし

地元の里山でむかしむかしブログ以前に撮った写真で雪を思い出して。

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 こころざしくづれて廿歳(はたち)雪の上を群靑の風過ぎし痕あり   (塚本邦雄:感幻樂)

いつまでもならない

めずらしく年賀はがきで11枚も切手シートが当たりましたので、郵便局で交換してきました。
pithecantroupusは懸賞に弱いので、これまで2、3枚当たるぐらいだったのに。
もっとも、1等や2等はあたらず、基本的な運の悪さは変わっていないようです。(笑)

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m.zuiko 30mm 3.5 macro

一昨日に”性生活”という単語に心を奪われて、「家族的非類似性」という文の一部を引用しましたが、同じサントリー文化財団のWEBに不思議の国のアリスの話があったので、そちらを引用します。(今井亮一「必ずたまたまウサギの穴へ落ちるために」)


 ルイス・キャロルの『ふしぎの国のアリス』には、アリスのこんな計算が出てくる――「えっと、4かける5は12、4かける6は13、4かける7は……あれ! これじゃいつまでも20にならない!」
(これは、18進法、21進法、24進法、・・・と続けていくといつまでも20にならないという数学の話なんだそうです。そんな導入につづけて。)

 理解することをめぐる哲学者トマス・カスーリス氏の2類型――IntimacyとIntegrity――・・・簡単に言えばIntimacyとは「友人とのおしゃべり」にも似た親密な共感にもとづく理解で、Integrityとは一貫した原理を学ぶ科学的・抽象的な理解だ。現代社会ではIntegrityが圧倒的に優勢であり、実際その恩恵は大きい。だがIntimacyを忘れてしまっていいのか? 

 ・・・ともするとIntimacyがなおざりにされ、いささか不都合な事態が生まれていると思われる。・・・
 例えば私たちは、コンスタントに仕事ができることをほぼ無条件に「よいこと」だと考えている。だがこれは、出産で仕事を離脱する女性を無視しているし、もっと言えば、1カ月に1度ほど訪れる生理という女性の身体リズムも軽視している。週休2日制と自由に月8日休める制度では月間勤務日数がほぼ同じだが、前者を「自然」と捉える人が多いだろう。こういった無意識の男性原理を鮮やかに暴露したのが、フェミニズムの理論的成果だった。しかし、こうした考え方がIntegrityとして理論的に「完成」しすぎれば、もっぱら状況分析に使われる機械的操作へ近づき、Intimacyとしての理解へは至らない。IntegrityとIntimacyが手と手をとって与えたインパクトが薄れてしまう。
 ・・・時に誤解されているが、フェミニズムは女性の役に立つだけではないのだ。


話題になっている元首相はもちろん、テレビで常識人的な顔をしているコメンテーターやMCに聞かせてやりたいなあ。

 紺靑の天幕を打つ涅槃西風(ねはんにし)奇術師が少女を輪切りにす   (塚本邦雄:豹變)

あらゆるものは途上

朝から雪がちらついていたので、写真だ写真だと、うきうきしていたら朝食後には溶けていました。
何事をするにもスローになってせっかくのチャンスもつかめません。(泣)
落ち込んだ気持ちを10年以上前の里山でいやそうっと。

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PR誌ちくまの15年9月号に鶴見俊輔追悼文が載ってました。四方田犬彦が書いています。
その末尾の部分を引用します。

 鶴見俊輔には結論、つまり最後の言葉を口にすることを、つねに躊躇するところがあった。あらゆるものは途上の段階にあり、それについて語ることは、とりあえずの、いつでも訂正のきく言葉でなければならなかった。生と死についても、それが結論ではなく、中途の出来ごとにすぎないという態度をとり続けた。あらゆる人は死ぬから偉いのだと、彼は平然といってのける。生きている者は死んだ人のことを嘆いてはならない。死者については讃えることができるだけだ。わたしもそうだと思う。
 失敗を克服する最上の道徳とは、それが最終の判断ではなく、どこまでも中途に生じた事件であると見なすことだ。彼は書いている。
「さらに遠く/頂点は/あるらしいけれど/その姿は/見えない」 (【追悼・鶴見俊輔】頂点は見えない/四方田犬彦)

最後のカギかっこの一文に救われる思いです。
さらに遠く、姿は見えないけど、頂があるらしいと感じられるだけでうれしいのです。
まだ今はのぼっているのだと思えるだけでもいいのです。

”追悼”のかわりに似ているから”追伸”で、
 追伸の墨かすれたり半月(はんつき)の留守に罌粟百株を枯らして   (塚本邦雄:星奔樂)

未開人

ゆきの御在所岳、数で勝負の日です。(汗)
横長画面で目先をごまかして。

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サントリー財団のアステイオンという雑誌のWEBに、雑誌から「家族的非類似性」という文が転用されていました。
『未開人の性生活』(マリノウスキー)という母系社会のトロブリアンド島民の研究書の話だそうです。
その一部を、

 彼らの社会では、子供を抱いたり膝に乗せたりしてあやす、背負う、洗う、母乳以外の食事を与える、といった仕事は父親の義務であり、子にとって父とは「愛情と保護のもとに自分を育ててくれた男」という存在らしい(ちなみに、だから「母に夫がいない者」は不幸とされる)。そんな父親たちにとっては、一緒にいる時間が長く、自分の手で食事を与えている子供は、自分に似るのがむしろ当然なのだ。(今井 亮一)

ここの島民は子供ができるのは男女の行為ではなく「霊」によると考え、子供が父に似るのは『血縁でつながっていることより、実際に「家族」としてつながっているからこそ家族は似ている』のだそうです。
pithecantroupusも、自分の子供だという実感は、生まれてすぐにではなく生後1か月たったころだったなあ。
それはpithecantroupusが未開人に近いという証明かもしれないなあ。

”未開”で、
 未開地の神父に贈るため自動ピアノの鍵(キー)を眞紅に塗るも   (塚本邦雄:装飾樂句)

雪見ぬもの

雪にあこがれて始めた白川郷ノスタルジアですが、合掌造りに引きずられそうなので場所を変えて、地元の山でブログ以前のむかし撮った写真を。

御在所岳という場所です。

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 瞼一重へだてて春の雪ふれる戀とやさはれ見ぬもの淨き   (塚本邦雄:睡唱群島)

鶴見俊輔「もうろく帖」の紹介記事の中に次のような言葉を見つけてちょっと癒されてます。

 いい忘れたが、このころ鶴見俊輔は公開の場でも、老化にともなう「ぼけ」や「モーロク」といった現象を人生からのみじめな脱落ではなく、社会がはめる枷からの自由として明るく理解したいと、繰りかえし書いたり語ったりするようになっていた。

よしよし、言やよし。

善を行うに勇

白川郷ノスタルジアなお、です。
きのうは数で勝負しましたが、きょうは大きさで。
不味くてもお買い得なら売れるのではないかという”トラタヌ”です。

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小泉信三が産経新聞に連載したエッセイが慶應義塾大学出版会から出版されているそうで、そのごく一部がネットで読めますので、そこから一部分を引用します。
ここで小泉は教育者としての立場で書いているのでお説教くさいのですが、

 どんなに心がけても力が及ばず、見す見す人の困厄を坐視しなければならぬというような残念な場合も起こらないとはいわれない。けれども、そのような場合、それを当り前のこととはしないで、残念だと思う心だけは失ってもらいたくないものだ。自分で自分をゴマかさないで、他人の困厄や公益の侵害を傍観したことを恥じる心だけは失ってもらいたくないものである。
 怯懦を恥ずる心、それは人々のすでに各々胸に抱くところのものである。私はわが同胞が、殊にわが同胞青年が、すでに抱くこの心を、忘れずに温め育むことを切に願う。
 古今の聖賢はすでに久しくそのことをいっている。
  「義ヲ見テセザルハ勇ナキ也。」
 二千数百年前の孔子の言葉は、今でも常に新しい。

そうだ怯懦はだめなんだ。
写真の出来が悪くても、腐りかけていても、勇気をもってブログに貼ればいいんだ。
言葉の理解の仕方がちょっとだけおかしくなるのは老化現象です。

 卑怯者と云はれてはつと立上がり茶の花や鶸に哀れがられぬ   (塚本邦雄:歌誌『オレンヂ』1948年8月)

山に雪

ノスタルジアです。だからシネスコ画面です。数で勝負です。(汗)

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 サンテ牢獄出でてはるけきアルプスに今日桃色の古き雪は見ゆ   (塚本邦雄:水銀傳説)

きょうの写真は10年以上前白川郷で撮りました。

二月の花の

おとなりロウバイ盗み撮りまた。毎日手入れされている庭がとなりにあってよかったあ。

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samyang 135mm 2.0

 隣家總領華燭けたたましく濟んで二月(じげつ)の花の一言絶句   (塚本邦雄:黄金律)

ちまたに

放ったらかしの庭のつばきの木に花が咲いていました。パシャッ。
もっと素直に撮ればいいと自分でも分かっているのですが、きれいに撮れないヘソ曲り。

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m.zuiko 25mm 1.2
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m.zuiko 25mm 1.2
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m.zuiko 25mm 1.2
 花婿の位相空閒 海石榴市(つばいち)の八十(やそ)のちまたに雪ふれるらし   (塚本邦雄:閑雅空間)

ことしは雪を撮りに出かける予定もなく寂しいかぎりです。壊れつつあるハードディスクから雪の写真を急いで取り出さなくては。
つばいちの八十のちまたは恋愛の成立する場所(万葉集)のようで、老人の脳もいまだにちょっとポッとするのです。えへっ!

時こそいたれ

おとなりのロウバイを一年前にも”盗撮”しましたが、ことしもこっそりパシャッ。
強風でブレてきりっとしてませんが。

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tokina 300mm 6.3 reflex

先週行った友人のグループ展で、期待したような”2020年”の写真は見つかりませんでした。マスクや消毒液を撮れというのではありません。コロナ禍のなかで何を撮ったか見たかったのです。こんな記事を読んだせいです。

 必然の時こそいたれ掌(て)におもき書と臘梅(らふばい)の香をかなしみつ   (塚本邦雄:湊合歌集)

サッカの責務

菜の花ノスタルジアをシネスコサイズでアップした昨日ですが、きょうは真面目に先週末の野暮用中のおさぼり写真で。
といっても我が家で撮ったのと同じような写真。ゴミを撮っていると言われても反論できません。道路脇の掃きだめですから。

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nokton 29mm 0.8

スーザン・ソンタグ「エルサレム賞受賞スピーチ」で前回引用した続きから、

 (作家でない)他の人々、有名人や政治家が偉そうに話しているのは、話させておけばよい。嘘八百だ。彼らにかわって、もし作家が、公の声として語った場合、何かましなことがあるだろうか。それは、意見や判断を組み立てることが、みずからの至難の責務であることを、作家たちならば肝に銘じている点だろう。
 意見にまつわるもう一つの問題。意見には自己固定化の作用がある点だ。作家がすべきことは、人を自由に放つこと、揺さぶることだ。共感と新しい関心事へと向かって道を開くことだ。もしかしたら、そう、もしかしたらでかまわない、いまとは違うもの、より良いものになれるかもしれないと、希望をもたせること、人は変われる、と気づかせることだ。

引用しながら、あの愛知県知事リコール運動に同席していた人は「作家」ではなくて「有名人」だったのかなどと不謹慎なことを考えています。永遠の。

作家のかわりにサッカーで引用して、
 サッカーの制吒迦(せいたか)童子火のにほひ矜羯羅(こんがら)童子雪のかをりよ   (塚本邦雄:天變の書)