2021/02/22
温かくなって花粉が元気になったようで、薬は飲んでいるのですが目がかゆいです。
郷愁の罠につかまって白川郷ですが、また何撮っているのです。


山崎努「柔らかな犀の角」は角田光代「マザコン」の批評で終わっています。
角田といえば、PR誌「ちくま」に「
すべての猫は語る」という題でポール・ギャリコ『猫語のノート』の批評を書いていました。
猫が我が家にやってくる前、「猫」という生きものは、私の世界に存在しないに等しかった。もちろん認識はしていたけれど、ただ「かわいい生きもの」として分類されていたにすぎなくて、犬やハムスターとそう大きくは変わらなかった。
猫がやってきて、そうして私の世界に「猫」がやっと生き生きと存在しはじめた。猫が猫として存在するということは、犬やハムスターと「猫」の違いがはっきりわかることを意味し、また、自分ちの猫のみならずすべての猫を愛することを意味する。
のだそうです。Pithecantroupusには理解が及ばない世界です。さらに、
「猫語で書かれた猫の言葉」なんて表現することを、かつての私は「人間の思いを押しつけている」と解釈していたのだ。でも、今は違う。
猫って、びっくりするほど表情ゆたかだと知ったから。しかもものすごく感情に沿った表情をする。不満なら不満をあらわし、戸惑いなら戸惑いをあらわし、安心なら安心をあらわす。好きなのにきらいなんてふりはしないし、たのしいのにつまらない顔をすることもない。唯一ごまかすのは、私たちが猫の失敗を見てしまったとき。ベッドに飛び乗ろうとして落ちる、遊びに夢中になりすぎて顔から壁にぶつかる、なんてことをしでかしたとき、「何もしていなかったけど?」という顔をする。
のだそうです。そういえば吉本隆明の最期の本「
フランシス子へ」のフランシス子も彼の愛猫です。いえ、彼より先に亡くなったのですから「愛猫でした」。
本はその猫の思い出を延々と綴るところから書き始められているのですが、少し読み進めると、
猫というのは本当に不思議なもんです。
猫にしかない、独特の魅力があるんですね。
それは何かっていったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。
あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。
自分の「うつし」がそこにいるっていうあの感じというのは、・・・
と書いていて、次の章へいくと、
自分の「うつし」が死んだ。
「うつし」が亡くなってしまった。
と哀切に書き出されます。100ページ余の本の前半はフランシス子につながる話です。
今日はネコの日だそうですので長々とネコを引用しました。
盲(めし)ひたる猫それぞれのうちに養(か)ひ微溫浴室(テビダリウム)のごとし我家は (塚本邦雄:日本人靈歌)