なまぬるし塵取り

またまた、何撮ってるの? です。
自分では面白いのですけれどね。
自己満足ですよね。
成長しないなあ。

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 西行論みななまぬるし塵取りに掃きよせてこの柊の花   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

ここは津市芸濃町のローカルな紅葉名所「河内渓谷」といい、一帯は「雲林院(うじい)」という地名だそうです。
紅葉の記念写真も一枚だけ。
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また早とちりです。
ネットのニュース見出しに『新・朝ドラ モデルどんな人?』とあったのを、「新・朝ドラエモン・・・」と読んで、新しいドラえもんが朝番組で登場するのかと思ってしまいました。
かなり脳の神経が混線しているみたいです。

電信柱が好き!

せっかくの紅葉があるのに電信柱を撮ってしまうpithecantroupus。
電信柱は好きです。
カメラに避けられている電信柱はかわいそうです。

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つまらん写真も見本に一枚。
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ノーマルな写真も一枚あげて、「変人」でない証明をします。(笑)
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 黄葉(くわうえふ)に透くうすき肉人妻の一人はむかしの蜻蛉(あきつ)   (塚本邦雄:睡唱群島)

滅裂に

なお冬眠中。脳もうつらうつら。写真はのこりもの。

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 鏡店すぎゆくわれを滅裂にうつし鏡の墓光(て)りひかる   (塚本邦雄:綠色研究)


フォトキナが終焉だそうです。時代が変わるということを実感します。もうカメラはオワコンなのでしょうか。
家族写真や記念写真はスマホ、感動する風景やスナップはグーグルのストリート・ビューからの切り出し、カメラを使いこなす技術は過去になり、既製の動画からスチルを切り出すテクニックが仕事になる・・・。

そのうちに無用の長物のカメラであそんでいると、「無用の爺イもいっしょに捨てちまえ」ってなるんだろうな。

志など記憶のそと

冬眠していると頭の中がぼんやりしてきて心も弱っていくように感じます。

『心と言ったとて、・・・水の上に浮いている瓢箪のようで、どういうこともないのが心である。・・・志があるので、初めて心が具体的になって来る。そして、その心に力が生ずる・・・』(幸田露伴「新年言志という事について」)と、むかしのえらいひとが書いていたので、新年を迎える準備をそろそろ始めようかな。

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 方寸の地にたたずめど立志など記憶の外(ほか)に冬菫濃し   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

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幸田露伴は、ここを読んで興味を持って、でも引用元の書名に間違いがあったので、1円の古本で確認したら、きょうの文が続いていました。

愕然と冬眠

寒くなって冬眠中なので一枚だけです。
あれもこれもしなければならないことはいっぱいあるのに。

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 勞咳の父の晚年 愕然と冬麗の護國神社の前!   (塚本邦雄:魔王)


すべて自分のせいだけど、三島由紀夫も吉本隆明もやっていた必死という生き方がなぜ自分にできなかったのだろうと後悔しきりです。

憂國忌いな奔馬忌

お仕事さぼり写真の残りものです。

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紅葉も一枚。

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吉本隆明は、「フランシス子へ」の中の『いい老人にはなれない』で、中間に挟まれどっちにも行けない世代と自身を表現し、「あいつは死ぬ勇気がなかったと言われれば、それはそのとおりだと心の中では思っている。それがずっと心の重荷でしたから、中間の僕らは本当に行き場がなかった。」と書いています。

「中間の僕ら」という複数形は自分と、文学者の村上一郎、三島由紀夫などです。でも、村上も三島もどちらも自裁してしまったと、このとき悔やんでいたのではないでしょうか。
きょうは三島由紀夫が市ヶ谷で割腹した日です。

 白妙のカラーに別れ靑年の肉ぞうちむらさきの奔馬忌   (塚本邦雄:閑雅空間)

写真は映像に勝てるか。コピーは小説に勝てるか。

紅葉撮りに行ったのじゃないの?
毎度のことです。アの人ですから。

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写真の質の低下を言葉でごまかして、気がつけば口舌の徒になっていました。中平卓馬を「自らの写真の基点に反して、自らの思考に毒された意味づけを、毒された言葉によって成そうとしてと言ったほうが当たっている」と以前ブログに書いたというのに。
「男は黙って」の三船敏郎はかっこよかったなあ。


 冬霞たつやカルロス・ガルデルの「沈黙(シレンシオ)」わが挽歌となさむ   (塚本邦雄:豹變)

いい老人にはなれない

先週末は2日連続して久しぶりの「お仕事」でしたが、集中力に欠けるpithecantroupusは大事な仕事を棚に上げて、ふらふらとカメラをもってあたりを散歩しました。むかしは真面目だったのですが、これもきっと老化のせいです。絶対、老化のせいです。

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金曜日は曇り空、土曜日は木枯らしの一日でした。
 道明寺驛のこがらし香具師風(やしふう)の男一匹こぼれおちたり   (塚本邦雄:黄金律)


きのう吉本隆明をすこし引用しましたが、ブログで以前に引用した部分の直前に、

 本当は何にしたっていわく言いがたい中間こそが問題で、その中間の何かを書いてしまったら、あとはなんにも残らないって感じがするんです。

また、別の箇所でも、
 
 ただ、このごろよく思うのは、何か中間にあることを省いているんじゃないか。
 何か大事なものかそうじゃないか、それもよくわからんのだけど、本当は中間に何かあるのに、原因と結果をすぐに結びつけるっていう今の考え方は自分も含めて本当じゃないなって思います。

と言っていて、それが書いてある箇所の小題はまるでこちらを見透かしたように、『いい老人にはなれない』でした。
「遠野物語」で、かれが興味を持っていた「中間」が気になっています。

われは何もの

ふたたび六華苑の紅葉にもどって、自己満足自己満足。

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 われは何ものならざりけるかこゑのみて視る紅葉(こうえふ)のをはりの黑   (塚本邦雄:黄金律)


遠野物語を読もうと、どこに視点をおこうか探して、こんなの見つけて、あれやこれやろくでもないことを考えています。

 僕らがもっている思考方法では、ここにAがあってBがあってここに中間があるという言い方をしますと、AはA、BはB、中間は中間で決まっているというように、中間の概念は端とおなじようにいつでも決まっています。そのような論理的なイメージをもっています。それが僕らのもっている中間の概念なのですけれど、柳田国男の思考方法の特徴は、文体もそうなのですが、中間は必ず連続しているのだというスタイルなのです。柳田国男の文体のスタイル、思考方法のスタイルは、何かわれわれ日本人のもっている伝承や風俗・習慣や性格の特質ととてもよく掴んでいたといえます。(吉本隆明「『遠野物語』80周年シンポジウムでの講演より抜粋)

あきっぽいから

紅葉に飽きてひとやすみです。アマノジャクですから。六華苑です。

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 こゑ絶えし眞晝はるけき韃靼を火屋(ほや)にうつして揺れをりラムプ   (塚本邦雄:驟雨修辞學)

リチャード・ロイド・パリー「津波の霊たち」を読んだのですが、pithecantroupusは日本人だと再確認し、やっぱり「遠野物語」はすごいなあと再確認したのでした。
新しいものが頭に入って行かずに、やたらと古いものがいいように思うのは老化現象に違いありません。決めつけずに新しいものを要再読かな。

この乱脈

落葉を2枚です。
落葉を見上げるというのもまた新鮮でした。
ほんとうは周りにきれいな紅葉もあったのに。

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きのう引用したGQジャパンのエディターズ・レター冒頭は、山田洋次監督へのインタビューの話から始まっています。
そちらのインタビュー記事で監督は言っています。

 (寅さんは)献身の物語ですよね。献身することに寅さんは喜びを感じている。だから、「寅さん、ありがとう。あなたに会えて幸せだった」といわれることで満足するんだ、とじぶんにいい聞かせているんじゃないですかね。「もう私のことを放っておいて」といわれたことないからね。最後はかならず感謝されている。


「けんしん」の歌を引用して、
 檢診のこの亂脈はまたの世に噴泉(フオンテーヌ)喇叭飲みせし咎(とが)   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

pithecantroupusに「献身」はほど遠い話ですが、持病が不整脈だから「乱脈」には合致です。(笑)


陽は白く照り 〜六華苑

わがままな日も必要ですよね。
このままくさっていきそうだと感じて何もかも放ったらかして、文化の日にどこへも行けなかったので「文化財」で、2年前にもいった六華苑です。
まだ錦秋には少し早かったです。

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 文化の日の陽は白く照りマラソンの蹌踉ととほざかる靑年   (塚本邦雄:日本人靈歌)


 GQ JAPAN編集長・鈴木正文が、「風と光と二十の私と」と題された坂口安吾のエッセイを引用して、
 『この世は、「悪さ」や「ずるさ」をみちびく「悲しい理由」に満ちている。とりわけ2020年は、そういう理由が満ち満ちていて、悲しいことに見舞われ、無力を噛みしめた僕たちの魂は、いまなにを叫ぶのか? ずるさとともにあるはずの正しい勇気の分量は、いま僕たちにどれだけ残っているのか?』
と書いていて、家出したpithecantroupusにもきっと勇気は少しはのこっているだろうと願ったのでした。

黄金伝説

紅葉撮りの報告です。

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 霜月の古書肆『黄金伝説』の背をさすりつつありける女人   (塚本邦雄:花劇)

紅葉(こうえふ)に招待

三重県の北勢地方、宮妻峡という場所へ友人が紅葉を見ようと連れて行ってくれましたが、いつもの悪いクセが出てへそ曲がりを証明してしまいましたので、紅葉メインの写真はあとまわしにして。

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 「紅葉(こうえふ)晩餐會に招待」點晴は落鮎と漆紅葉のサラダ   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

かつてわれ

写真でも撮りに行くという外出だとちっとも疲れないのですが、自分の意志でない外出は疲労感満々です。勝手なものです。

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「勝手」のかわりに「かつて」で、季節外れですが、
 かつてわれ善意にあふれ街ゆきぬ轢かれし花の今日に似し街   (塚本邦雄:透明文法)


日本人の著書ではないけれど、「遠野物語」をもう一度読むつもりで本を手にしました。日本語の訳文につまずきますが、こけないようにぼちぼち読もうと思っています。リチャード・ロイド・パリー「津波の霊たち」。

まをとめのまうしろに

散歩写真に戻って。
散歩が目的ですから、写真の質は問わないように、お願いです。

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きのうの思い出に出てきた胸の大きな「小百合」さんとクラブで一緒に山小屋に泊まり、男女一緒のザコ寝のとなりが彼女で、ドキドキしながら、でもすぐに眠入ってしまいました。なんだかちょっともったいないことをした気分。

 われにのみ秋こそきたれ眞處女(まをとめ)のまうしろに露しとどなる山   (塚本邦雄:黄金律)


多和田葉子「献灯使」を読んで作者はSFと思っていないだろうと書きました。「予言」という言葉は使わないようにしました。
他者がそれを使うなら結構ですが、みずからそれを使いたくないという感情が働きました。ここを読んだせいかもしれません。

ふと恋し

ことしに予定されていた100周年行事がコロナ禍で延期され、その協議をする会議でひさしぶりに母校へ行きました。
懐旧の情に流された写真を5,6枚撮ってきました。

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あのころに戻りたい。クラブの先輩の一人はもうあちら側へ行きました。その先輩の彼女は、胸を大きくした吉永小百合みたいな女性だったなあ。
「懐旧」の「旧」で。

 掟あまたありける舊き惡しき世がふと戀し 額の花鉛色   (塚本邦雄:獻身)

空想

ほんとうは山の方へ紅葉を撮りに行きたいのですがそんなチャンスもなく、お散歩10分の成果物なお、です。

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多和田葉子「献灯使」に悪戦苦闘して、きのうの吉本隆明にならって、断定できないときは答えを出さずそういう地点に立っています。(笑)
放射能汚染が広がった日本を舞台にした「献灯使」、3.11のあとも場所を変えて大震災が起こりフクシマが場所を変えて再発した「不死の島」、事故で戦闘機が原発の上に墜落したあとの列島の物語「彼岸」と、そのアナキーな世界に脳みそがついていけないのです。
だからちょっと立ち止まって、しばらく頭を冷却しています。
いずれもデストピアの世界ですが、作者はけっしてこれをSFとは思っていないと思います。

 「熱月(テルミドール)」などと名づけし空想の酒場しらじらしく君不惑   (塚本邦雄:驟雨修辭學)

ここ過ぎて

お散歩、お散歩、たった10分ですが、すこし気持ちが晴れました。

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olympus e-m5mk3 135mm
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olympus e-m5mk3 135mm

きのうゼロかイチの中間のないデジタルとかきましたが、その真ん中の大切を書いてあったのは、吉本隆明の最期の本でした。

 実在を本当に確かめるのは大変ですから。「いや、本当にそうか」ってことを追求していったら、なかなか断定なんてできるもんじゃない。もっと言うなら、生きるっていうのは、どっちとも言えない中間を断定できないまんま、ずっと抱えていくことじゃないか。(吉本隆明「フランシス子へ」)

このあと彼は、断定できないときは性急に答えを出さず、そういう地点に一回立つだけでも、ものの見え方、考えかたっていうのはまったく変わってくる、と言っています。
pithecantroupusはずっと立ちっぱなしなんですが、ちっとも変われないなあ。


 黄落(くわうらく)のかつはなやかに萬象はここ過ぎておのれ頼まざらむ   (塚本邦雄:天變の書)

素人、半素人

家の周りの木々も紅葉してきたので散歩に出たいのですが野暮用で出られません。きのうの残りでお茶を濁します。

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先日引用した「日本習合論」の記事で、べつのところに著者自身の言葉が紹介されていました。

 僕の学問だって、こう言ってよければ「旦那芸」です。・・・
玄人と素人をつなぐ半素人、旦那芸としてーー。
遠くかけ離れた二者をつなぐ「歩哨」(センチネル)としてーー。
自然と文明、貧者と富者、弱者と強者、マイノリティとマジョリティ・・・分断が進む両者をなんとしても「架橋」(ブリッジ)しなければいけない。
そしてそれは、神道と仏教が「習合」したように必ずできる。必ずできるばかりか、そうすることで、思ってもみない景色が広がる。創造される。少なくとも、ずいぶんと息がしやすくなる。

そういえば、
写真ばかりでなく、人間の思考や行動や言動までデジタル化しているように感じます。
1と0だけで中間がなくてもよいという乱暴。明確さには優れているけどアナログのもっていた可能性がそぎ落とされるような気がします。
ちょっと方向違いかもしれませんが、そんなふうに読んでしまいました。


 素人絃樂四重奏團蜜月の一人缺きたり、やがて解散   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

かぜのたより

同い年の友人が、きのうギブスがとれたばかりという腕で遠くから運転して、大きなシイタケやサツマイモを持ってきてくれました。
同じ日、べつの方からも到来物があったので、その記念写真です。

pithecantroupusはものをくれる人が大好きです。(笑)

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せっかくのいただきものを汚く撮ったままでは失礼なので、きれい(そうな)写真も。

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 弟が継いだ遺産の古酒の名を遠國できくかぜのたよりに   (塚本邦雄:透明文法)

音楽的に賛成

イヌ、ネコが出てきて童話みたいだから読みやすいだろうと手をつけたら、にっちもさっちも行かなくなりました。(涙)

読み進めると、リスが出てきて、クマが出てきて、キツネが出てきて、pithecantroupusの脳には容量オーバーです。
それに、
 「その意見には音楽的に賛成です。」「ボールを二つ同時に使うサッカーのようなスポーツです。ボールを同時に二つ使うの? ちょっとエロチックかも。」「つまりポイントは集めない方が得なんだ。そのとおり。そんなのは消費者のための活用文法の初級です。」などなど、
固くなった老人の頭をガンガンたたく文がつづきます。オーバーヒートした脳を冷やさなくては。(汗)

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二重露出
 

墓石のごときテレヴィ

視聴率さえとれればいいのか、と思いながら教育テレビ(古いなあ。Eテレ)のお子ちゃま番組見たり、読みかけの本を開いたりしています。

 久しき危機まひるめし屋に人充ちて視入る墓石のごときテレヴィに   (塚本邦雄:日本人靈歌)

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olympus pen-f 25mm

先日読んだ赤川次郎が面白かったので、前回同様、大林宣彦が映像化した短編を読んだら、これがつまらない。赤川次郎を読み続ける気が失せて、きのう引用した多和田葉子の本に手をつけました。ちょっと読んだだけですが、面白い本みたいです。


「Blog鬼火~日々の迷走」というブログで、芥川龍之介のこんな文を読みました。

 望むこと二つ
 もし現在の自分の個性をそのまゝ持つて生れかはるとすれば、先づ矢張り人間に生れかはりたい。唯もう少し、頭が良くて、肉體が丈夫で、男振りが好い人間に生れかはりたい。生れる場所は、成るべく金のある家に生れて一生食ふ爲に働かずともいゝやうにしたい。あまり大金持の家に生れるとすると、却つて苦んだり戰つたりしない爲めに、健全に發達しないと云ふ説もあるけれど、僕の個性をそのまゝ持つてゐれば、その點は大丈夫だから、矢張り大金持の方が好都合である。

ここまではpithecantroupusもまったく同じです。正直者!
まだ続きがあります。

 その外に僕は、かう云ふことを考へてゐる。と云ふのは、もし本當に生れかはるものとすれば、人間より下等な馬か牛に生れかはる。そして何か惡いことをして死ぬ。さうすると、神だか佛だか知らないけれども、兎に角、さう云ふものが僕を、馬や牛よりも下等な雀か鳥にするだらう。それが又惡いことをして死ぬと、今度は、魚か蛇にするだらうと思ふ。それ、が又惡いことをして死ぬと、今度は蝶々とか蚯蚓とか云ふものにするだらうと思ふ。それが又惡いことをして死ぬと、今度は松の樹や苔などになるだらうと思ふ。それが又惡いことをして死ぬと、今度は、バクテリヤになるだらうと思ふ。そのバクテリヤが惡いことをして死んだ時に、神だか佛だか何かさういふ知らないものが、一體僕を何にする了簡だらうと思ふと、ちよつと馬や牛に生れかはつて、順々に惡いことをして、死んで行つてみたいやうな氣もする。

これは芥川でなければ答えられない答えと感じます。すくなくともpithecantroupusはここに及びません。

なすこともなきひるさがり

ウシで遊び中です。

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olympus pen-f 25mm
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olympus pen-f 25mm

きのう引用した多和田葉子をインタビューした記事(文:西山武志)から。
カッコは多和田の言葉、地の文はインタビュアーの文です。

 「・・・『自分はどういうものが好きなのか、面白いと感じるか』をはっきりさせて、膨らませていくこと。それこそが『自分が主体的に選択する』という態度に繋がっていくから」
 私が私であるために、主体的に選ぶこと。常時インターネットに繋がっている今では、存外難しい行為かもしれない。スマートフォンを覗けば、いつだって向こうが"あなたへのオススメ"を用意してくれている。自分で選んでいるように感じるのは錯覚で、その実は「限られた選択肢の中から、意図的に選ばされている」といった状況に置かれていることも多い。
 「1日1時間でもいいから、いつもの繋がりをシャットダウンして、普段とは違う方法で自分が選んだものを吸収する。その繰り返しで視野が広がっていくと、用意された"枠"に敏感になっていくはず。誰かの都合でしかない枠組みを打ち破って自分で選択していくこと、自ら選択肢を見出していくことを、常に考えてほしいです」

ここを読みながら近いうちに本屋へ行こうかな思いました。


 立冬のなすこともなきひるさがりひと來てたまひけるあめのうを   (塚本邦雄:風雅)

きょうは没

もうのこりものさえのこっていません。きょうはボツにした写真で。

 天才の父とはなべて唇(くち)嚙みて霜月の猩猩緋(しやうじやうひ)の没陽(いりひ)   (塚本邦雄:豹變)

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読みたい本が多すぎます。むかしは何冊もを並行して読書しましたが、いまは一冊に四苦八苦です。
次に読みたい本はきまっているのですが。

「......君たちは、悪いことをしていないのに謝ってはいけないよ。」
「でも迷惑かけてるよね。」
「迷惑は死語だ。よく覚えておいてほしい。昔、文明が充分に発達していなかった時代には、役にたつ人間と役にたたない人間という区別があった。君たちはそういう考え方を引き継いではいけないよ。」
(多和田葉子著『献灯使』より)

丈夫、丈夫、大丈夫

暇つぶしのタネを探していたら、一年以上前の食べ残しのオニグルミが出てきたのでパシャッ。

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olympus pen-f 60mm macro

閑居して不善をなすpithecantroupusは、ネット・サーフィンしてエッチな画像を見たり面白いなあと思った記事を読んでも暇つぶししています。
そんな記事(ミシマガジン「日本習合論」)にこんなことが書いてありました。内田とあるのは「日本習合論」の著者、内田樹です。

内田 そうですね。養老先生にそう言っていただきました。「内田さんみたいなのは『頭がいい』って言うんじゃないんだ。『頭が丈夫』って言うんだよ」って(笑)
内田 頭の中にいろんなものが詰め込んでも、丈夫だから壊れないの。
内田 領域が違うものを頭の中にランダムに詰め込んでおかないと遠いもの同士の関係性というのは見えてこないからね。夏目漱石とか大瀧詠一さんが僕の理想です。

pithecantroupusは丈夫な写真が撮りたいです。


 大丈夫あと絕つたれば群靑のそらみつやまとやまひあつし   (塚本邦雄:魔王)

ウシの背にゆれ

う~寒いです。じっと動かないようにしています。このまま冬眠したいです。
ぐずぐずしながら、年賀状の試行錯誤なお、です。

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olympus pen-f 25mm

 妹は牛の背に搖れわがこころ千千(ちぢ)にみだるる秋の夕暮   (塚本邦雄:新歌枕東西百景)


きのうにつづけて浅田次郎の引用で、ICUに入った主人公が、誰にも気づかれずに意識だけ戻って、幻覚を見ながら、
 そもそも、「時間」とはとてもいいかげんなものだ。少年の一日と老人の一日が、同じ長さであろうはずはない。客観の一日は同じでも、主観ではそれぞれに異なるのである。

また別の個所では、幻覚に出てくる女性、じつは主人公の母が、
 「・・・みんなが不幸なときの不幸と、みんなが幸福なときの不幸はちがう」

時間とか不幸とか、あちらの世界ではゼロですもんね。冬眠しているとあちら側が近づいてくるような気がします。
でも、小説家って言葉で遊ぶのがうまいなあ。

よすが

きょうは二番煎じということで。(汗)

 磊落に洟(はな)かむことも霜月のよすが戦艦「安芸」の悪友   (塚本邦雄:歌人)

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olympus e-m5mk3 135mm 二重露出

感想文のつづきも書いて、水増し水増し。
こんな一節もありました。

・・・どうもこのごろ、猜疑心が強くなったような気がする。もともとは何だっていいふうにしか考えない楽天家なのだが、六十を過ぎたころから悪意を警戒するようになった。
 世の中のせいではない。体力が衰えた分だけ、何か事件や事故が起きる前に予防をしておこうとする、動物的な本能なのだろう。
 しかし考えてみれば、それはずいぶん情けない話で、そうした本能の命ずるままに老いてゆけば、しまいには煮ても焼いても食えぬ偏屈な年寄りになってしまうと思う。(浅田次郎「おもかげ」より)


まったくおっしゃる通りです。経験的に真実だと知ってます。猜疑心をよすがにしなければならない悲哀です!

「命ずる」「食えぬ」と歳相応の言い回しの中に、(事件や事故が)「起きる」と書いてあります。「起こる」という客観性が強い表現を避けたのかな。
「命じる」「食えない」と言わないところは、pithecantroupuより5歳ぐらい年上を想像します。
「起きる」は人為現象、「起こる」は自然現象と習ったような気がするので、事件は起きるけど事故は起こると、これもあやふやな記憶です。細かいことが気になるのも年寄りの属性かもしれません。

残花紅き

なおのこりもの、なおごみ箱から。

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olympus pen-f 17.5mm

 残花紅き夕べの庭に下り立ちて水飲めり万斛(ばんこく)の憾みのごとき   (塚本邦雄:透明文法)


写真がつまらない代償に、浅田次郎「おもかげ」の感想を書きましょうか。

 彼は生後間もない1951年クリスマス・イブの夜に地下鉄の中に遺棄された「捨て子」で、誕生日は推定で12月15日とされました。pithecantroupusと同世代ですが、生まれてから(捨てられてから)ずっと東京が舞台ですので、そこで生活したことがないpithecantroupusにはイメージが広がりませんでした。
 65歳の定年退職の日に地下鉄の駅で倒れ、病院のICUで眠り続けている間に、会ったことのない母と、時間をさかのぼりつつ邂逅する話です。『僕の世代にはまだ、男は狩りに出て獲物を求め、女は洞窟で子供を育てるという、原始人の習慣が残っていた』とありましたが、残念ながらわが家では女も一緒に「狩猟」してました。(笑)

いま一つ

時間が早いです。

 霜月の光とぼしく旅行くと模糊たりいま一つのわがいのち   (塚本邦雄:天變の書)

先月18日ののこりものです。

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浅田次郎「おもかげ」読み終わりました。
気に入った文は本の上辺に、きちんと理解できなかったところは横に、読みや意味がはっきり分からないと下辺に、それぞれ付箋をはったら、本がハリネズミのよになってしまいました。(笑)



それに集中力が持続しないpithecantroupusは、第一章と第二章のあと最後の第六章のエンディングを読んで、それからまた第三章から最後まで読み進めました。これで読了といっていいのかなあ。(汗)


あるところにこう書いてありました。文中の「先生」は小林秀雄のことです。かれがいう頭の良し悪しについて、

 先生は、小説家でも評論家でも、相手の集中力如何で頭の良し悪しを言っていた。その集中力を、持続力と言うこともあった、ひとつの物事を何時間でも何日間でも、何年間でも考え続ける持続力である。

この文では、入学試験で長文問題を解くときまず設問を読んでから本文を読む「受験テクニック」が批判的に書いてあるのですが、pithecantroupusの読書はそれに近いなあと思いました。