2020/06/03
なんでもない写真が一枚だけです。
こんな日もあります。
一日果つる言葉はさはれあぢさゐの藍にうるみてこの淡き生 (塚本邦雄:豹變)

sigma dp2
内田樹が
自著の紹介をしている一部分を引用します。
『街場の親子論』のためのまえがき
今の日本社会では、過剰なほどに共感が求められている。僕はそんな気がするんです。
とりわけ学校で共感圧力が強い。とにかく周りとの共感が過剰に求められる。
僕は女子大の教師だったので、ある時期から気になったのですけれど、どんな話題についても「そう!そう!そう!」とはげしく頷いて、ぴょんぴょん跳びはねて、ハイタッチして、というような「コミュニケーションできてる感」をアピールする学生が増えてきました。
何もそんなに共感できていることを誇示しなくてもいいのに、と思ったのです。だいたい、それ嘘だし。
ふつう他者との間で100%の理解と共感が成立することなんかありません。あり得ないことであるにもかかわらず、それが成立しているようなふりをしている。「そんな無理して、つらくないですか?」と横で見ていて思いました。
歌謡曲の歌詞だと、心を許していた配偶者や恋人の背信や嘘に「心が冷えた」方面についての経験が選好されるようですけれど(ユーミンの「真珠のピアス」とか)、さっぱり気心が知れないと思っていた人と一緒に過ごした時間が、あとから回想すると、なんだかずいぶん雅味あるものだった・・・というようなことだってあると思うんです(漱石の『虞美人草』とか『二百十日』とかって、「そういう話」ですよ)。
僕は「理解も共感もできない遠い人と過ごした時間があとから懐かしく思い出される」というタイプの人間関係が好きなんです。それをコミュニケーションのデフォルトに採用したらいかがかと思うんです。
浅くて遠い人間関係が脳の老化にも有効とどこかで読んだ記憶があります。もう遅いかもしれません。
毎日朝から晩まで顔を合わす、近すぎる人間と共感が共有できないのはどうすればいいでしょうか。