夜汽車

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松本 2009 E-500 ZUIKO DIGITAL 14-45mm F3.5-5.6

◆オリンパスペンEED (※ これはフィクションです)
日が落ちて車窓には外の景色に加えて車内の風景が映るようになった。トンネルに入ると外の景色が消えて車内の様子がさらにはっきり鏡みたいに映った。
長いトンネルだった。ガラスに映った車内の様子をぼんやりと見ていた。ちょうど私の席から通路を隔てた隣のボックスにいる親子が見えた。若い父親と母親の間に、まだ学校へ行く前だろうか小さな女の子が座っている。三人とも黙ったまま前を見て、子供も両親の間の狭い場所で身じろぎもせずおとなしく座っている。
私はその家族から目が離せなくなった。
窓際のテーブルに置いたままのカメラに手を伸ばした。気がつかれたらきっと逃げてしまう。花にとまったチョウを撮るときのように、そっとカメラを構えた。振り返って直接カメラを向ければ気づかれてしまうだろう。ガラスに映っている三人の姿をそのまま撮ろう。
ジィッと少し長いシャッターが切れた。f1.7とはいえ、プログラムシャッターはきっと8分の1秒の速度だったに違いない。多分ブレてしまっただろう。
トンネルを出ると車内の景色は淡い色になってはっきりしなくなってしまった。またトンネルに入ってくれたら、もう一度撮ろう。
トンネルはなかなか来なかった。ついしびれを切らして、私は三人のほうを振り向いた。私が予想したとおり、そこには誰もいなかった。あれは、確かに息子の家族だった。息子、嫁、孫。
私は急に思い出した。息子たちと私はもう同じ世界にはいないのだ。今夜は私の通夜の晩で、息子はとうとう私の死に際に間に合わなかったのだ。
カメラを見ると使い慣れたオリンパスペンEEDだが、いつもの梨地のボディではなく、あの世界には無かったはずのブラックボディだった。

山で

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曽爾高原 E-P1 M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6

◆オリンパスペンS (※ これはフィクションです)
あれから一年たった。あいつに会いたくないから命日には1週間早い日に来た。そんな気を遣っている事に自己嫌悪する。小さな慰霊碑の周りの草が伸びて、知っている者しか気づかないだろう。サイダーとアーモンドチョコ一粒を供えた。
思いがけずあいつが現れた。チェック柄のシャツと紺色のニッカボッカ。あのときと同じ服装だった。登山靴が汚れていないことだけが違っていた。
ここで会うことを予期していたようにあいつは頭を下げた。ご無沙汰しております。何も言葉が出なかった。お渡ししたい物があります、と言ってナップザックから白いハンカチで包まれたものを取り出した。私が立ちつくしていると、あいつは私の手を取ってその包みを握らせた。そして頭を下げると、多分供えるつもりで持ってきた花をそのまま持って、来た道を戻っていった。
家へ帰ってからハンカチをほどいてみた。オリンパスペンSと折り畳んだ紙片が出てきた。紙には、このカメラが娘の物である事、遭難したときに行方が分からなくなっていた事、一月前に奇跡的に見つかった事、届けたかったが家に近づくなと言われいたので躊躇した事、もしかしたら娘がカメラを渡すチャンスを作ってくれるのではないかと思った事が書かれていた。
ペンSは軍艦部の縁が少し凹んでいたが、大きな損傷はなかった。まだフィルムが入っているようなのでカメラ屋に持っていって、事情を話して写真の焼き付けを頼んだ。
出来上がった写真はさすがに水が流れたような跡や光線漏れの跡が少しあったが、きれいに焼き上がってきた。
娘がいた。笑っている。あいつも写っていた。二人が肩を組んだ写真もあった。娘が楽しそうだった。写真がぼやけてきた。目がかすんできた。涙が落ちた。彼に礼状を書こうと思った。

言葉の力

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E-P3 M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 II R

◆オリンパスペンEE (※ これはフィクションです)
言葉が真実か否かに価値をおく者と、言葉によって人がどう動くかに価値をおく者とがいる。
彼は小さい頃から後者だった。自分の話す言葉で相手が期待通りの行動をするかどうかが大切だった。あの時もそうだった。
私は新しいカメラを買ってもらった。カメラを向けてレリーズするだけで撮れるという、最新式の、オリンパスペンEEだった。明日からの夏休みにあちこちを撮ろうとわくわくしていた。
彼がどのように話したか覚えていない。気がつくといつの間にか、その大切なカメラを彼に貸すはめになっていた。口惜しさと後悔の気持ちをこめつつ、「これ使ってみて下さい」と内心に反することを言っていた。その年の夏は、私にとって心から楽しめないものとなった。
新学期が始まって間もなく、彼がカメラを返してくれた。意外だった。しかし私は、自分のカメラが薄汚れてしまったように感じて、もうあまり使う気になれなかった。
さらに2、3日して、彼が「あれはいいカメラだ。小さいけどいいカメラだ。借りてから5枚撮ったらフィルムが無くなったので現像に出した」と、ネガとサービス判に焼いた写真を私に向かって差し出した。
それから彼は、私の写真の腕がいいと話し始めた。サービス判の写真を一枚一枚見ながら、「黒白だが色が感じられる」「奥行きがあって立体的」「今にも動き出しそうだ」などと褒めちぎった。聞いている間に、私は自分が写真の天才のような気がしてきた。「新しいフィルムを入れておいたから、撮ったらまた見せてくれ」と彼は私の肩をたたいた。
残念ながら私は写真の天才ではなかったが、写真は今日まで続く趣味になった。今になっては、あの時の彼の言葉に感謝している。

カメラをもった女性

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江戸東京たてもの園 2011 E-P2 Cosina COLOR HELIAR 75mm F2.5 SL

◆オリンパスペンD (※ これはフィクションです)
すれ違った若い女性は首からペンDを下げていた。ストラップや革ケースは最近のサードパーティーのものらしかった。D発売当時のオリンパスにはなかったものだった。
いくつもある小京都と呼ばれる地方の少し雅な、レトロな町で、時代に取り残されたような景色を、あれこれと撮り終わった彼女は、「待ってよ」と少し大きな声を上げた。私はカメラの方に気がとられて、その姿形はあいまいにした。
50年前にもこの町でカメラをつり下げた若い女性とすれ違った事を急に思い出した。あの頃の私にはカメラの名前は分からなかったが、小振りのグレーの二眼レフだったから、ヤシカ44あたりだったのだろう。
水色のフレアスカートでレースの飾りのあるブラウスを着て、やや背の高い、目の大きな人だった。あのころの私はカメラよりも若い女性の方に気がとられていた。
そんな事を思い出したら、にわかに老け込んだ気がして、振り返って、ペンDの女性の姿を目で追ってみた。

友人の思い出

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E-P3 M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 II R

◆オリンパスペン (※ これはフィクションです)
ちょっと見せて、と彼のカメラを手にとった。
軽くてひ弱な感じのカメラだった。100分の1、f8、2mにセットし、彼をファインダーに入れてシャッターを切った。チィッと小気味よい音がした。とても押しやすいシャッターボタンだった。
力をこめればつぶれるのではないかと思ったカメラも、意外にしっかりして、板金の張り合わせでなくダイキャストの手応えがあった。持ち主の彼と同じだった。背が低くて、やせていて、なのにどこか大人びている。
かれは写真に頓着しない。フィルムの箱に書かれたお天気マークと絞り、シャッタースピードの組み合わせを忠実に守って写真を撮っていた。しかし、彼が撮る写真はいつも私にショックを与えた。
外部露出計をつけた一眼レフでとった私の写真がまるでつまらないのに、彼のオリンパスペンでとった写真は、月刊誌の月例写真や、ときにはプロの口絵写真のように見えた。
わたしを嫉妬させた才能に彼はまったく気づきもせずに、サボテンを集めては手入れをしていた。高校を卒業してすぐ就職し、そのころから盆栽を趣味にして、会えば木や花の話ばかりした。しばらくして、ある人から、彼の盆栽の腕はプロ並みだと聞いた。彼が亡くなったのはその直後だったと思う。
それは秋のよく晴れた日だった。斎場に集まった同窓生たちがそれぞれの思い出話をした。彼が花屋になりたかったという事をそのとき知った。写真も好きだったが妹や弟がいてはいいカメラも買えないからと諦めていたという事も。
オリンパスペンのファインダー越しの彼は、照れたように、恥ずかしそうに、無理に笑顔を作っていた。

叔母の思い出

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E-P1 LUMIX G 20mm/F1.7

◆オリンパスペン・ケース (※ これはフィクションです)
叔母の遺品整理をしていたら、オリンパスペンの赤いソフトケースが出てきた。
叔母といっても兄弟の多い父の一番下の妹なので、わたしより3つ上だった。赤いケースは覚えている。ペンの何かの記念品だった。うれしそうに見せてくれた事が思い出される。
遺品の中にカメラはなかった。ペンD2かD3だったような気がする定かでない。
叔母は、山登りが好きで、山の写真をよく撮っていた。気に入った写真を四つ切りに引き伸ばして飾っていた。
写真に凝るような事はしなかったから、ただただ自分が美しいと思った景色を素直に撮っていただけだろうが、引き伸ばされた写真はわたしにもうつくしいと感じさせるものだった。
ある時、山の空は本当はもっと青くて夜空のように暗いが、写真に撮ると白くなってしまう、と相談された。少し写真に凝っていた私は、オレンジ色のフィルターを貸してあげた。
しばらくして、こりゃダメだわ、とフィルターを返された。写真がザラザラになると。
わたしは、うっかりして露光倍数を教えていなかった。
そんな事を思い出しながら、赤い人工革のソフトケースをなでていた。
カメラはなくなったけれど、四つ切りの写真は一枚ぐらいどこかにあるのではないだろうか。もう一度、見てみたい。その風景に向かってカメラを構えている若い叔母の姿を想像したい。元気な姿を想像したい。