慈光院のつづきで。

 慈光院を立てた片桐石州は、片桐且元伯父さんが城主だった摂津茨木城に生まれ、のちにお父さんが家康によって封ぜられたこの地の殿様として、当時の文化的な大名たちと交流して茶道を広めたそうです。

 石州流茶道は、彼の死後、徳川将軍家の茶道が小堀遠州を祖とする遠州流から石州流に替わったことで「石州流にあらざれば茶にあらず」といわれるほど隆盛していくそうです。
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KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

 慈光院は臨済宗の禅寺ですが、本尊の釈迦如来像などを安置する現在の本堂は新しいもので、その前はかなり以前から質素なものだったといわれますので、30畳以上の規模の書院を中心にした茶席の場として続いてきたそうです。

塚本邦雄
 短夜のみじかさにこそやすらはむわれら 十藥の十字缺きたり   (黄金律)


 かつて、天皇家内部の抗争を新しい文化である仏教で克服し、豪族間の抗争を和歌で克服し、応仁の乱を能楽で克服し、下剋上の戦乱を茶道で克服してきたように感じます。

戦国時代の終焉にあたって何を価値の判断基準のものさしにするかと考えたときに、茶道は新規の価値体系をもち、身体を動かしておぼえるという点で、戦国時代を駆け抜けてきた運動部系の大名に都合がよかったのではないかと思うのです。朱子学という机の前でお行儀よく頭脳を使うm価値体系をものさしにするには、犬公方の綱吉まで待つ必要がありました。

茶道を武力に替わる新しい価値にしようとしたと考えると、茶道を芸術の範疇にとどめて純粋性を高めようとした利休は切腹しなければならなかったと感じます。

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