塚本邦雄
霜月の雨薄明におとづれて無惨なる名よ「朝妻団地」  (風雅)
天才の父とはなべて唇(くち)嚙みて霜月の猩猩緋(しやうじやうひ)の没陽(いりひ)  (豹変)
他界より無音つづきて霜月の酸漿の皮紅羅のごとし  (詩歌變)
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近江八幡。
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評論家はしばしば嘘をいう。
これも40年前の「美術手帖」([特集]写真の座標 神話の定着と拡散)より。

肉眼の疎外と写真家の可能性
「写真文化」の構造について

 職業写真家と大衆の写真との断絶とは、商業資本の論理の介在が、その正体である。そこにある「写真文化」とは「商業資本の文化」以外の何ものでもなく、写真家は否応もなく、商業資本の論理に組み込まれている。その論理構造こそ、、職業写真家の拠点であり、表現主体のよって立つ地点なのだ。
「写真文化」の正体
 仮にいま「写真文化」というものがあるとすれば、それは空気のような存在なのであって、われわれの生活に不可避に紛れ込んできている
 「写真文化」の構造について、総カメラマンである大衆を底辺に、アマチュア写真家を中間に挟んで、その上層部に職業写真家が乗っている、という見取り図が描けそうな気がする。

アマチュア写真家の状況
 アマチュア写真家に、果たしてよく写真の自立性を探し求めうるだろうか。
 しかし、結論を先に言えば、商業資本の論理は手際よく彼らをも組み込んでいた
 自分の目で見ているつもりが、いつの間にか「善良な庶民」の目に転化している。

写真家の可能性
 写真が商業の論理からはみ出て、自立する可能性はまったくないのか - 私はそれこそが、不可避に商業の論埋にとっぷりとつかっている職業写真家の、自らに向けなければならない問いではないかと思う
 反抗さえも反抗的な情緒として受け入れ、のみこんでしまうマス・メディアの恐怖、商業の論理の貧欲さ、絶えざる肉眼の収奪に抗して、「写真家の肉声の獲得」を断念するわけにはいかないのだ。


「写真文化」の正体そのものが間違っている。
ピラミッドはありません。というよりも、ピラミッドこそ商業資本のつくる幻影です。
川島小鳥の「未来ちゃん」や浅田政志の「浅田家」を見れば、あるのは才能の差だけと分かります。
プロと言っても才能のない人は多い。売れる写真をとる人はいますが、40年先、50年先に残っているかどうか。
商業資本に組み込まれ・・・は、今さらの話で、いかに独自の写真を撮ることが難しいかを再確認です。

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