Age of Pen

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はるかなるかな殃(わざわい)

塚本邦雄
月は朝(あした)、花は黄昏(くわうこん)うすなさけこそ片戀の至極とおもへ  (風雅黙示録)
おとろへて坐す黄昏(くわうこん)をコルシカの戀唄赤き針零(ふ)るごとし  (水銀傳説)
秋風を踏みつつあゆむ たとへば今日愛國者とはいかなる化物  (汨羅變)
はるかなるかな殃(わざはひ)一つひとづまの柑子噛みたる黄丹(わうたん)の口  (感幻樂)

近江八幡。
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近江八幡で菓子舗「たねや」のPR誌をもらってきました。
記事や写真に惹かれたからですが、
川内倫子の写真が載っていることに驚きました。
その写真に、さすがだなあ、と。
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ファイニンガーも西井一夫も染谷學も築地仁も大西みつぐも、
技術の先にあるものこそが写真にとって大切といっています。
私でも撮れる場所で撮れるものを撮っているけど、私が撮ればどこにでもあるつまらない写真になるのが、自分で分かるのがかなしい。
「たねや」の川内倫子の写真は、彼女以外の誰にも撮れない。
たまたま1974年当時のマミヤのサークル誌がでてきて、そこに出ているフォトコンテストの写真が、
(私よりずっと上手なのですが、)
現在のコンテストで見られる写真と変わらないことへ驚き、
失望して、うんざりしていたときだったので、一層鮮烈でした。
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以前、マイケル・ケンナの写真展でも同じように打ちのめされたことがありました。
染谷學・大西みつぐ・築地仁『「写真」のはなし』のつづきから、

モノと場所(大西みつぐ)
「質感」の先にあるもの
 写真で「質感」が再現できると、モノのもっている手触り感が私たちの経験に応じて写真から伝わってきます。しかし、ここでもうひとつ問題も生じます。そのモノが含まれていた周囲はどうだったのか、モノと周囲はいかにつながり、そこは「場所」としてどのように成り立っていたのかということです。
モノと場所の関係は空間として立ち現れてくる
 大事なことは、とりあえず配置といいますか関係そのものをしっかり撮っています。広角レンズ損影のため歪みがないように垂直線に注意しつつ、縦位置にしてフレームが決定されたのです。つまりこのモノが含まれる空間として意識したということです。逆に考えれば、モノと場所の関孫は空間として立ち現れてくるともいえる
 モノばかりしか見えないということだと、ちょっと退屈な写真になってしまうこともある
 写真空間の発見というところに写真表現の面白さもあり、私たちの視覚を自由に拡大してくれるものなのかもしれません。


写真の物語性について(大西みつぐ)
予定調和を表明しているだけでは面白くない
 写真コンテストの審査をしていますと、まさに「決定的瞬間」といったスナップショットに出会うことがあります。・・・作者は物語を感じシャッターを待ったともとれます。「待って撮る」ということ自体、特別に悪いこととは思えません。しかしそこに過剰な物語を思い浮かべた結果、その「思い」だけが一人歩き
 一枚の写真としてぜひともドラマチックな場面が欲しいのだという気持ちも分からなくはありませんが、たとえそれが実現したところで、「なんと間のいい写真なのか」という予定調和を表明しているだけ

誰にでもわかる物語はつまらない
 一枚の写真イメージは常に曖昧な物語をそれぞれ(写真を見る側)に強いるものですが、細かな「配感」によっては意図的な方向へとイメージを持っていけるということも事実なのです。それもまた一種の予定調和なのかもしれません。
 自分の撮ったこの写真を見ていきますと、はじめは面白いと思ったものの、その物語牲が濃厚であるがゆえにだんだんつまらなくなってきます。いわば見え見えの展開でしかないだろうということです。


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