Age of Pen

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零落の明るき

塚本邦雄
零落の何ぞあかるき神無月切子の鉢に蝦蛄(しやこ)ねむるなり  (歌人)
満月は熟れつつ 賜へわが領に鳥目繪(とりめゑ)の斑(ふ)の吐噶喇列島(とかられつたう)  (蒼鬱境)
魚を塩に埋めてしづかに悪疫を待つこころ 許嫁者(いひなづけ)らに秋来る  (緑色研究)

近江八幡。
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まえに西井一夫の文を引用した「写真装置 #12 1986/1/10」の冒頭は42人の写真家へのインタビューでした。
いまも、そしてこれからも残る人もおれば、もう消えていった人もいる42人ですが、私の気になる人を5人選んで。
1985年末のインタビューです。

奈良原一高
 現在、そしてこれからの写真の方向とでは2極をめざして走り、その両極の複合した、重層した世界に住みたいと思っています。
 そのひとつは〈ナイーヴ・フォト〉もしくは〈イノセント・フォト〉といえそうな、写真の初源的な感動の流れに身を浮かべた世界で、光の音楽を感じたいと思います。いまひとつはアナログ的な円思考感覚にデジタル的な線思考感覚を交差させた〈デジ・アナ・フォト〉の世界を構築してみたいと思っています。


細江英公
 はっきり言って今や写真の時代はきわめて保守的です。たしかに写真は氾濫していますが、「今日を打ちのめす武器」としての写真は見当たりません。すべての芸術は、今日を破壊して明日を創る」ための強力な主張がなければなりませんが、どれほどの新鮮な提案もすぐに巨大な時代のルツボの中にのみこまれてしまい、何か明日をめざす光明が見出せないようです。日本の写真の特長ともいえる「情緒性」「私小説的」世界の追求だけでは今日をとりまく状況を突き抜けることはできなのではないでしょうか。
以上のような認識の上に立って、私は取敢えず今追求している「ガウディ」を更に深く突っ込んで行きたいと考えています。そして次は私の住んでいる「東京」を撮るつもりです。


深瀬昌久
 ぼうっとしたピンポケさかげんをいくらかも甘酢っぱい倦怠と悔恨で、うつらうつら居眠りしながら楽しんでるが現状かも知れない。明けても暮れても写真シャシンで餓鬼みたいなもんだった。ぼくは鬼になんかなりたくないが猫になりたい。死にたくもないがたいして長生きをしたくもない。
 先日山形県酒田市でロケで暇ができたので土門拳記念館に行ってみた。「古寺巡礼」展示中でにぎわっていた。堂々たる記念館での堂々たる写真群はデカかったせいもあるが、正義と理想に燃える赤マントのスーパーマンを絵にかいたような完璧さで圧倒された。だがぼくは完璧な写真なんか撮りたいと思わない。土門拳は鬼(多分赤鬼〉だがぼくは猫であることを認識したのだった。猫はホコリのたまった薄暗い隙間や隅っこが生来好なのである。猫よりも鬼はたしかに偉い、というのは猫の寿命はたった十五年位だが鬼の寿命は誰も知らないという。


森山大道
 たとえば、今日これから、あるいは、明日陽が昇ってかち、ひょっとすれば写るかもしれない、もしかしたら見えるかもしれない、たった一枚の、来るべきイメージのために、ひたすら自身にのみ向けて、日頃、撮りつないでいるような気がします。いま撮ることの意味も、これから撮りつづけるだろう理由も、ただ、これだけのことだと思っています。では、なにを写したいのか、どう見たいのかは、いっさい具体的ではありません。ただ、澄んで、止って、透明な、一枚のイメージのみが、空に、心に、あるばかりです。いわゆる、主題とか、展望とか、といったものは、いまのぼくには全くありません。撮る。見る。という永遠の循環があるのみです。

川田喜久治
 それほど写真が新しい考え方を導き出そうとはしていませんし、写真家もそうは思っていません。
ただすぐれた東西の思想家たちが、いま写真についての評論や物語りのたぐいのものを書いていますが、時代的な欲求の一部に無意識にも重なっていると感じます。
 しかし一枚の写真を写真家に撮らせることには役立っているとは思われませんが、それについて関心を捨ててしまうとどうなるかは自明のはずです。異質の想像力からイリュージョンを手に入れることはやはり必要でしょう。
 パラドックスという扉のなかでは、写真がいまにも反乱を起こしそうです。もう写真家は写真を語ってはいけない。写真の秘密にこの時代相当に迫られているので。


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